歩道叢書(平成 その2)

    歩道叢書(平成 その二) 

 
  島(平成二年)  小久保勝治
島近き瀬戸の流れの一つ瀬にもりあがりたる潮のかがやく
霧の海に出で航きてより五十年兄の墓石潮ふく哀れ
水死せし子を思ひ出さしむすなめりが島の渚に血を流し果つ
生死なく歳月もなし夢に遇ふ兄の言葉の切実にして
ありがたくわれは尊ぶ先生の詠みし神島十二首の歌


  
ハレー彗星(平成二年)  箕輪敏行
ひえびえと下降気流の降りつつ物音絶えて地は暗みたり
残照はアムール河の上に伸び白夜に似たる薄明となる
雲来り雲去りてゆく秋空の深きに今し金環ゆるる
鍬につく土漸くに湿り気をもちて種まく季となりたり
ペルー産の瓢の楽器に残りゐし種まけば青芽すがすがと出づ


  
冠 緒(平成二年)  橋本善七
大群の一文字せせり明けてくる海のうねりに乗りて漂ふ
大祓の人形流しに海までの道切幣を撒きつつぞゆく
築岸の舟にて祓をするわれに崎の桜の花ちりかかる
世帯主の欄に自らの名を書きて妻とのくらしあと幾年か
わがからだ漸く枯れてつつがなく八十五歳の年逝かんとす


  
短 日(平成二年)  加古敬子
春寒き炬燵にこもる母とわれ長く生きたる母は小さく
わが日々の原点のごと厨房に吊して黒きフライパンあり
寒き雨ふるひもすがら静かにて(ものう)きわれを叱るこゑなし
出棺を待つ人のなかおのづから容姿相似る使者の血縁
落葉してあかるくなりし柿畑に運不運なく野良猫あそぶ


  
硯の香(平成三年)  木村やよい
手の中につつむ硯の石の香の哀し老いたる父のたまもの
母逝きてのちの母ありし四十年生母をわれに語る人なく
離婚調停長びく中に夫逝きてあはれ婚家の事業わがつぐ
王宮の壁に鏡あり幻のごとくに暗きわが顔うつる
みづからが掘りたる穴に死を待ちし僧のミイラの傍らをゆく


  
航 跡(平成三年)  日吉武夫
海面をしまき寄せくるならひ風雪もしぶきも一つとなりて
切実となりたる時におほよその人は己れの立場をかばふ
四十年を隔てて会ひしこの友の吾の知らざる時を経し歌
湧きあがる水に伴ひそのめぐり静まりがたく水うごきゐる
峯みねの桜に茜のこりゐて吉野ふか谷ゆふ暮れてゆく


  
芹の香(平成三年)  米倉よりえ
森閑としたるめぐりと思ふ刻たちまち音し強震ふるふ
コンクリートの床に跳ねつつ匂ふ鮭つぶらに赤き腹子をこぼす
草焼ける跡に雪片ながらふる今日の山畑風やはらかし
手をとれば指しなやかに妹の力絶えたる指を組ましむ
芹の香のただよふ朝親しみし厨は清し年たちかへる


  
老松抄(平成三年)  佐久間よ志の
三ケ根の山襞ふかく還り住み再び吾の出づる日のなし
季すぎて細葉みだるる曼珠沙華土に伏しつつ冬越えむとす
自らの重みにたふる牡丹花は午後ふりいでし雨にくづるる
ひと群の地鶏遊ばす媼ゐてやしの林にわれらも憩ふ
草を抜くわが背ぬくしと寺庭にいで来て午後の一時すごす


  
沖 空(平成三年)  大賀正美
茫々と海けぶりゐる浜畑のいづこも明るく菜の花の咲く
とりどりの花を培ふ峡畑に芥子の花散る午後のしづけさ
家庭科の教材とする食パンのスライス終る朝日さすころ
子育てを理由に移りゆく子らに区切を付けて励まんとする
噴火にて不漁つづきて出漁せぬ船が入江にひしめきて泊つ


  
風 紋(平成三年)  浮貝すみ子
近づきしわが足音に金魚らのはねる音する風なぎし午後
木々覆ふ下を舟ゆく利根川の水路は青し水の香のして
風紋のおのづからなる影を置く砂の静かさ冬日に照りて
照りかげりはげしき山の中道に雪より出でてそよぐ笹の葉
幾枚か遠き水田にくれなゐの光とどめて空暮れんとす


  
冬 青(平成二年)  大立一
年明くるきよき光に粒々の艶をもちたる冬青の実の朱
若葉せし棗の葉叢わたる風光の移るごとくしづけし
淡紅の山茶花の花さき替りひそかに季の移りゆくらし
むれ泳ぐ鯉らときをりつれづれのさまにて流れに従ひくだる
ありありと鏡に写る老斑を当然としていまはなげかず


  
歴 遊(平成三年)  遠藤那智子
秋の日のあまねき街に黄のあかりともして葬列の車がつづく
アステカの世に死者の道たりしこの広場今三月の暑き日がさす
土蛍の反映およぶ地底湖の光みだしてわが船すすむ
草山は広き花原とらのをのゆれつつ咲ける白限りなし
職退くときめし頃より射るごとき夫の眼みることのなし


  
伊豆沼(平成三年)  平抜敏子
悲しみも嘆きもなべて汗流し働くときに鎮まりゆくか
耕してのぼりつめたる峡棚田つひの棚田は一坪たらず
わが薄き肩に負ひたる噴霧器も風なき稲田も夕べ重たし
共に負ふ悲しみあれば老母とわれの諍ひみじかく終る
傍のわが家猫の薄き耳ひえびえとして梅雨のあめ降る


  
秋 香(平成三年)  海宝文雄
門覆ふ冬青の雫を受けながら積みて日浅き石の色づく
利根川の水一筋に見えわたり白く輝く植田の果は
落差ある湖水と海の境にてたぎつ流れに鱒のぼる見ゆ

わが父の建てし墓石崩れしを妻と積みをり地震過ぎし日
秋香の中燕とぶ浦の辺に立ち繁忙をひととき忘る


  
朴の葉(平成三年)  渡邉貞勇
皆既食となりて大気の静まらん闇にその輪の鈍く光りて
おほよそは木陰に生ふる筆竜胆(ふでりんだう)目に立たず咲き目に立たず散る
温泉と言ふべきか否か混水の風呂にやむなく病む身を浸す
ひたすらに四十余年農に生くわが過去に悔恨のなし
籾種を親子三代揃ひ播く残る疲れも楽しといはめ


  
花 映(平成三年)  村田英子
手術して視力もどりしわが母は春の光を吸ふごとくゐる
道へだて会ひたるわが子麻痺のある体揺らしして交差路をゆく
水の上わたらふ風に吹かれつつ百頭の馬川原に憩ふ
朝より暑さただよふ城壁の門開かれて駱駝入り来る
落葉松の林に透る鐘の音ながき余響は空をわたらふ


  
水 畦(平成四年)  尾島正人
色づくに遅速のありと思ひしが公孫樹並木の散るとき疾し
(きささげ)の広葉はいまだやはらかしそよぎて風の音をまとはず
紡錘虫化石の薄片を磨きつつわれもめぐりもしづけき午前
分校を閉ざす儀式にわが在りて雪降りやまぬ三月七日
登校せしは五日のみにてそののちの一年あまり病みて逝きにき


  
雉のこゑ(平成三年)  神田あき子
山々は若葉となりて啼く雉の声は太しもわが畑に聞く
実りちかき蜜柑畑にさす秋日茫々として緑かすめる
風絶えし峡の夕ぐれ椎の木の梢がとほく茜に浸る
をさな子を蜜柑畑に伴ひし日々を楽しく思ふことあり
ものものしき山の装具を日に干して娘は朝より闊達にをり


  
菩提樹(平成四年)  石井清恵
山茶花の花濡れをりておもむろに明けゆく庭の霧動きそむ
百歳に近づく父と迎火を共に焚きつつ明日は思はず
僧侶なる故にそれぞれ異れる墓にねむれる父母あはれ
昇りくる今宵の満月冴えをれど視力失せたる夫に言はず
みづからの青葉の中に耀ひて菩提樹の花あまた黄に咲く


  
夕 街(平成四年)  佐藤みちや
足弱くなりし姑の手を引けば素直にわれに従ひて来る
言にいでて生死をいはぬわが夫みづからの墓地を直ちに決むる
溶岩の間に萌ゆる夏草をわが乗る馬がをりをりに食ふ
街中にながく咲きをりし夾竹桃花おとろへて残暑がつづく
直線の広き歩道を自転車に乗りてわがゆく海見ゆるまで


  
小 安(平成四年)  葛貫なつ江〔葛は正字〕
淋巴腺取りて久しき右腕のしきりに重し梅雨降る今日は
温りの背にほのぼのと伝ひくるみどり児負ふはあと幾日か
来し孫と迎へし孫のあどけなき片言互に通ひあふらし
暮れ方にわが歩み来し路地の裏迫りくるごとき満月のあり
桟橋を離るるフエリーにまつはれる海鳥共に沖に出でゆく


 
 機の音(平成四年)  高野恵美子
しづまりて日々働ける職人らときに集団の顔にて迫る
産院に並ぶみどり児均等に朝の光を浴びつつ眠る
冬の日の丘の雑木のあひだにて白き光は梅咲く畑
枝はらひ影簡潔に並木たつ道路は直接海にて終る
砂乾く渚に若布吊し干しこの島人ら田畑を持たず


  
春の林(平成四年)  宗像友子
下草を刈りてゆたけき五年杉の新芽を渡るこの初夏の風
紫蘇の実を扱くわがめぐりあかるきは入日に透きてコスモスの咲く
いち早く浅谷に咲くまんさくのめぐりあかるく春の雪降る
洪水の泥あつく積む水田に穂先の残り稲の花咲く
北を向く山の高きに氷る滝一すぢ光り冬日を反す


  
韮 粥(平成三年)  横尾忠作
韮粥のおもてしづかに乾きつつ煮ゆるかたへに座りてゐたり
一日のすでに終りしにはとりがからだふくれて夕日に並ぶ
朝靄の中に伏したる稲を刈りわびしくおのれの鎌音を聞く
秋の夜にさめて思へばこの家に父死にゆきし位置にわが臥す
リンゴ食ふ憂ひなきいまの音ききてベツドの妻に別れ帰り来


 
 吉田橋(平成四年)  石川栄一郎
吉田橋名のみ残りて川底は自動車専用の地下高速路
小企業なれば休日も社に出でて機会動かすわれ子とともに
咽喉やみて声の出でねば鉦ふりて用のあるとき妻を呼ぶなり
重症の妻と高熱のわれともに同じ病室に口きけず伏す
菜の花は黄の波うちてかがやけり谷をへだてし山の畑に


 
 聴 雨(平成四年)  市田渡
愛名(あいみやう)の境越えむと若き日々人をうとみて弧を守りゐつ
乞食の境あくがれかにかくに生き貫きて来つ八十一年
直接の血すぢならぬを知りしとふ幼らあはれ老われあはれ
雪雲のひと処切れ青空になびく白雲かなしみに似つ
わが門の白雲木のたちまちに散りし花踏み季ををしまむ


  
石 蕗(平成四年)  太田幸子
住む人のゐるとも見えぬ山峡にあやめの咲ける小さき畑あり
商店の長きア―ケ―ドの末端に見えゐて親し明るき冬日
退潮のひびく断崖冬の日に黄にかがやきて石蕗の咲く
右手利かずなりて癒えし子幼らの母ゆゑに負ふ苦の多からん
ソレントのホテル朝明けて中庭のオリーブ畑に鳥の声満つ


  
百日紅(平成四年)  秋山綾子
丘畑はいづこも寂し掘られたる落花生の実の日に乾きつつ
逝く夏の日に照りながら紅深き百日紅の花の咲きつぐ
ひたすらに寒き夕街彩灯のあかあかとしていたく輝く
床の上に座りて黙しゐる父の思ひいかならん暑き昼すぎ
被爆者の声静かなり広島のその日のあはれ語りをりつつ


 
 冬 虹(平成四年)  駒沢信子
母を焼く建物こめてためらひのなく照りつくる夏の光は
癌を病む人肉親におほければ(あした)むなしき連想をもつ
声帯を病みゐるわれに親しかりこの静かなる川の石群
衰へて言葉すくなく過ごしゐる父のめぐりのかかる静けさ
雨あとの月のひかりは弾力のある感じにて中空に照る


  
五月の朝(平成四年)  大藤ゆき
江の島の暗き浜辺は媼らの浜念仏の赤き火が燃ゆ
衰への止めどなくなりし夫まもるものみな光る五月の朝
杖つきてただよふごとき夫のあとしたがひ歩む珊瑚樹の道
あつけなき別れなりしか暁のひとときの間に夫逝きたり
ほのぼのと心なつかしき紙風船独りつきつつ音をたしかむ


  
火のしづく(平成三年)  田野陽
陋巷(ろうかう)に花をうながし降る雨のひと日苦渋に似つつ家居す
五十二歳の感慨として風媒花のごとき頼りなき生殖おもふ
憐れなる眼の老いとして覗きみる拡大鏡に通夜の地図あり
家のまは稲かぐはしく稔るなど野良時計見ゆる村の風景
釣りあげし海たなごより胎生の仔がつぎつぎにこぼるる憐れ


  
高 雲(平成四年)  船河正則
漸くに椎茸の乾燥終へし夜半裏山に鳴くむささびの声
牛小屋の梁につばめの孵りゐて牛の背朝々糞によごるる
母の墓掘りて出でたる簪の玉をひそかにわが護符にもつ
疾風に幹ごとゆるる杉の木の高きにひとり枝を打ちをり
病室に落ちつきしわれを置くごとく夕ぐれ妻の帰りゆきたり


  
築 港(平成四年)  遠藤忠
ストーブを取り払ひしが事務室のそこのみひと日寒き感じす
日食のひかりしづまりし空高くかもめの群は乱れつつ飛ぶ
看取りするわれと看取られゐる妻と話題少なし降る昼の雨
ただよへるごとくに生きて五月晴の今日七十の生日迎ふ
老残の身を家ごもる日々にして庭にてつせんの返り花咲く


  
苧 環(をだまき)(平成四年)  安藤絹子
切断機高くひびきて私語ひとつ透らぬ工場に区画線ひく
いらだちに子等を叱りて子の泣けばわれも泣きつつ明日の米磨ぐ
訪ひくるる人なき庭にをだまきの花咲かしめて平安の日々
ゆさゆさと垂るる花房庭さきに愛でゐし夫も藤もまぼろし
団欒のひととき過ぎてわが移る離れに冷えし空気のうごく


  
別 離(平成四年)  桑子康雄
この坂を越ゆれば憩ふ灯のありてわが一日の労働終る
ビル高く据ゑられてゐる起重機がをりをり予測し難くうごく
邂逅と別離かさねて春逝くと思ひてゆふべ妻の辺にをり
去年ともに見し虎の尾の花すぎてことし独りの夏ゆかんとす
貧しさのうちに逝きしが顧みて爽やかなりき妻のひと生は


  
煙草の花(平成四年)  新宮哲男
のこりゐし花散り終へて乾く庭蔭のしたしき葉桜となる
しろじろと霧うごく中妻とわが煙草摘みゆくその音ひびく
命終の母まもる夜半窓外の灯に唐突に蟬が来て鳴く

癌に逝きし母を或る時は切実に思ふことなどありて老づく
季ながく咲くみそ萩のくれなゐにとぶ蜂光り庭の辺暑し


  
森(平成三年)  田村茂子
工場地の空地あゆめば安らぎの甦へるこゑ雀らつどふ
帰り来し厨にかたまりゐる蟻を殺してしばし心いきほふ
休止せる高炉みえゐて葦群に絶えず通へる海風にほふ
恵州につづく道のべ水牛の鋤ける水田に光あふるる
痴呆を病むひと朗らかにゐる冬の日の暖かくうらがなしけれ


  
小工場(平成三年)  小林喜七郎
病やや良き日工場に入りゆけばわが眼鋭しと人に言はるる
暑き日の幾日つづきて病み臥せるわが体匂ふ夜半に覚むれば
超音波胸にうけつつ刻ゆきて睡気もよほす検診室に
積まれある杉の角材香にたちて二月の雪はその土に降る
生き残りゐたりし飛蝗庭畑の草刈りをれば唐突にとぶ


  
枇 杷(平成四年)  翠川良雄
仕事持たぬ身となりて今日原宿の雑踏の中ゆきつつ空し
罪多きわれと思へどその罪を知れるを良しと思ふこのごろ
しみ多くなりしわが手に気づくなど梅雨の一日寂しくこもる
くもりより日の差すことなくトレドの街めぐりて静かに川は流るる
平原を走る列車に蝿一つ飛びゐて旅の心なぐさむ


  
夕 照(平成四年)  井上マスヲ
乾燥の極まる畠の胡麻の根に埃ともなふ土を寄せをり
忽ちに土の匂の湧き立ちて待ち待ちし雨強く降りいづ
瀬戸口の波静かなる海の中花束投げて亡き子らを恋ふ
永らへて楽しき事も憂き事も流るる雲の如くに軽し
人の世の時間は寂しわれの身に忽ち過ぎし八十六年


  
秋冥菊(平成四年)  桜井富子
こぼたれし家跡の匂ひ胸を打つ亡き夫と十年此処に住みにき
この年も四キロの芋蒔き終へて心安らぐ春の夜の雨
雪の降る重たき気配常よりも早ばやと温き夕餉整ふ
いとまなく降る雨の音聞きながら納屋にひととき薯の芽を()

つばらかに咲きつぐ庭の秋冥菊あまねき光を集めて耀ふ


  
鶏 鳴(平成四年)  猪狩清
まどかなる山の平に牛をりて一つ動けばいくつか動く
顧みぬ棗たわわにみのるなどなべて甲斐なき物は栄ゆる
手術終へて命まさしくわがものと思ふ束の間涙あふるる
癒えてなほ老の哀れは限りなし医師にうつけの如く言はるる
年金に縋る暮しにあり慣れて田畑の維持の日々煩はし


 
 猿ケ石川(平成四年)  高橋緑花
今朝刈りし草にまじれる月見草夕べ牛舎の中に花さく
学校の教職をやめて農継ぐと娘は淡々と朝庭歩む
明日の花今日閉ぢし花交々に木槿のほとりわが帰り来し
土間隅の藁打石が雨の日に汗滲みいづる如く濡れゐる
雨あとのあをあたらしき篁が風に揉まるる影雪にあり


  
緑 地(平成四年)  片山新一郎
冬の雨いつやむとなき窓の外われに沈黙を強ふる樫の木
患者逝きし夕べ机にわれ寄りて悼むともなく頭垂れゐつ
家族らを見別かず医師を識別するいまはの老の意識かなしむ
往診する春の夜の峡いつになくわが顔に触るる闇やはらかし
街の緑地みればさながら自らの顔に還りて憩へる人ら


  
遭 遇(平成四年)  福田徹
樹氷群るる原を日すがらおほふ霧反照のなき白のしづかさ
初老期の貌もちて臥す枯葉剤患者声低く二十歳と言へり
三十年つづきし絆切り開く反対尋問われはなじまず
拘置所に午後四時告ぐる声ひびき接見は無為に終らんとする
和解にてよきかと薬害患者らに問ひつつむなし弁護士のわれ


  
雪 原(平成四年)  柳照雄
ひもすがら地吹雪ふけば風邪に臥す体にひびき震ふわが家
木にあふれ栗の花咲く峡の道ひとりあゆみて帰路を急がず
波荒るる渚の空を飛ぶ鴎脚ちぢめつつ風にさからふ
消灯の後ゆくりなく降り出でし雨音われの眠りを誘ふ
埋れゐし若木が雪をはね返し立つ音ひびく春山に来つ


 
 光 帯(平成四年)  石川節子
遠空の雪雲のうへ茜してきさらぎ尽の夕映をはる
その意識かへらぬ母よふるさとは白き林檎の花咲く頃か
たばこ喫ふ二男は二十歳少年の名残とどむる眼の清し
酸素マスクつけし子の呼吸今日一日気遣ひをりて晴雨を知らず
今日夫の乗りたる船はいかならん荒き風音ききつつ眠る


  
古 希(平成四年)  森とみか
三世代交流の会に参加して吾も悩める一人と思ふ
注連飾り早ばや除けて天皇の崩御かなしむテレビの前に
水仙を活けたる部屋に日もすがら香に沁むごとく編物をする
忙しく働くわれに老母は身体を少し労はれと言ふ
代掻きの夫も機械もさながらに泥にまみれてひと日が終る