歩道叢書(昭和20年~39年)

    歩道叢書(昭和二十年~三十九年) 

  
三椏の花(昭和二十九年)  梅田敏男
夕おそく門田の面に居る鴉かはずの卵すすりをるらし
路の上に光れる斑雪見つつ歸るゆふくらがりに三椏匂ふ
汗垂りて四人の僧ら經を讀む父の柩の静かなる前  
(僧は旧字体)
柿の木にのぼりて柿を食ひてをりこの安らぎは空青きため
吾がうへを飛びゆく鴉こゑせぬは玉蜀黍をつひばみゐたり


  
草の上(昭和三十年)  佐藤志満
二階より降りこし夫が雨の日の敷居に蝋を塗りはじめたり  
(蝋は正字体)
かかる日を花曇とぞいひ慣れて晝の靄立つ街の上青し
愁ひなきいまのうつつか遠くまで水底見えて湖に降る雨
幕開きし舞台のごとくにはかなる空の夕映雨やみしかば  
(台は旧字体)
負ひゆかん悲しみゆゑに亂るれど幼子はかく吾にまつはる


  
湖の音(昭和三十年)  井野場靖
汝が葉書もちひし代と父は言ひて十錢紙幣を疊にならぶ
斧をわが振り下すたびに掛聲をしてゐし子等も午に歸れり
吾を自嘲せしめし彼の言動をくたくたとなりなほ思ひゐる 
對岸に朝日照るときしらじらと見ゆる幾本は何の木の幹
波立てば湖に映らぬ夕空は橙の色いよいよかがやく


  
地 表(昭和三十一年)  佐藤佐太郎
秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨(すぐ)なる雨は芝生に沈む
颱風のあらぶるなかに鶏の産卵の声しばらくきこゆ
鉄のごとく沈黙したる黒き沼黒き川都市の延長のなか
北上の山塊に無数の襞見ゆる地表ひとしきり沈痛にして
能登の海ひた荒れし日は夕づきて海にかたむく赤き棚雲


  
聖 餐(昭和三十二年)  小林慶子
清らなる流れに湧きし夕霧は水藻の花を包みそめたり
豫測せぬ想ひわきつつ目の中に入りたる塵の如しと思ふ
午前二時を過ぎしと思ふスト―ブのなほ燃えさかる炎見て居り
ひややけき土踏みながら対象のなき哀憐のこころきざしつ
つづまりは負ひゆかんものかく吾に常にして寂し日々の祈は  
(祈は旧字体)


  
反 照(昭和三十三年)  加藤正明
灯の下に本を讀む子よ父のごと汝も貧しく一生過ぎむか
良き服をもたざる故に疎まれし記憶は我も妻も子ももつ
ふらふらに酔ひたる父が謹みてわが寝る傍の廊下を通ふ
夜學より歸り來し子が隣室に小さき音をたててゐたりき
(わか)れ來し水のふたたび合はむとす月光に青き波たてながら


  
夏 燕(昭和三十三年)  式町春夫
さだかなる光ともなくゆらぎをり青麥の上に風わたるとき
部屋の燈に光りて夜の時雨降るなべてはすぎてゆくものの音
窓下に炊く朝飯のふく音をうつつに聞けばいのち生きたし
かすかなる生の證のごとくにて蝙蝠傘を庭に乾したり
生涯のつひの病室と思ひつつ壁白き部屋に擔下おろさる


  
松心火(昭和三十四年)  長澤一作
めし粒をこぼしつつ食ふこの幼(ひん)の心をやがて知るべし
ゆるやかにいま靄のなか過ぐる貨車向うは更に厚き夕靄
風の吹く夜にてゴッホ自畫像の赤き瞳を吾は見てゐし
速かにめぐりが昏れてゆくときに爐のなかの(おき)いよいよ赤し
街上にひびきゐし風やみしかば遠き沒りつ日光る消火栓


  
夕 映(昭和三十四年)  岩嶋省一
朝は朝陽夕は夕陽にくれなゐの色透きて見ゆさるすべりの花
ひと時に築地の空をおほふほど雁群れとべり北に向ひて
少女らに呼び止められし「おぢいさん」は吾と氣付きて悲しかりけり
鍼により漢藥によりて老い朽つる身を寂しくも支へんとする
繋がれしままおとなしく座りゐる仔犬の頭撫でて通れり


  
離 合(昭和三十五年)  河原冬蔵
白魚を箸に挾めばあはれあはれありとしもなき腹のくれなゐ
別れ住む幼もいつか避けがたき人の離合を知ることあらむ
泣く妻に縋りて吾を見るをさな幼にわれは如何に映らむ
うとみ來しわが母なれどひとりして縁に涼みてゐるは哀しき  
(縁は旧字体)
夕刊を取りにいで來て暮れのこる明るさあれば佇みて讀む


  
くさむら(昭和三十五年)  松木光
いざよひの月の光にさやかにて蕎麥の花咲くここの畑は
湖のなぎさに立てば夕昏れてアイヌコタンに煙たつ見ゆ
ドラフトの炎は青く分解の終らんとする液たぎちをり
刈り終へし稻田に薄き霜おきて母の柩に冬の日のさす
野鳩啼く庭に降り立つわが父を見つつかなしも弱りたまへり


  
對 岸(昭和三十五年)  松浦良夫
飛行機の窓外暮れてたえまなく顕つ紫の排氣の焔  
(顕は旧字体)
月落つるときの暗黒は目に見ゆる速さをもちて野にし擴がる
山なかの思ひがけなき平にてただよふごとき蕎麥の白花
電話機より戻りし銅貨はその中にありしものにていたく冷たし
谷川の(あたり)に積む雪はまるみある厚さをもちて汀に終る


  
工場街(昭和三十六年)  平井寛
わが窓に見ゆる製練所の一部分體ごと人は貨車を押しゆく
連結の衝撃のたび岩鹽をふりこぼしつつ貨車止まりゐし
わが來たる干潟の泥に數しれぬ貝ゐて音すこの夕つ方
火口湖に立ちて移らふ白き波ながき經過ののちに消えゆく
動物の親子のやうな悲しみのきざして浴室に子を洗ひゐる


  
春 嵐(昭和三十六年)  大石逸策
風荒るる夜道をゆけば足もとに春田の水がひたひたと鳴る
かにかくに過去は過去とし忘れむと霙降る夜をわが眼醒(めざ)めをり
衰へて冷き父の肉むらをさする夜更けにひとり涙す
妄想の父をなぐさめゐる夜半に外にみぞれの降る音きこゆ
小さなる眼をしばだたきおとなしくなりてひと日を(こや)りゐる父


  
歐米遊塵(昭和三十六年)  青木秩川
この街の茶房好みしありし日の君し偲ばゆ茶房に居れば
                    
(斎藤茂吉)
氷雪の海はこごしもクレパスに(あを)黒く見ゆる海のその色
                    
(北極圏)
山峡の二つの湖に境するインタ―ラ―ケンの夕光に立つ
岩山の氷河くりぬきしトンネルは冷々として青白く見ゆ
東京のみ濠に住める白鳥はここに生れしと聞くがかなしさ


  
寒 潮(昭和三十七年)  梶井重雄
牡蠣をむく女の膝に冷え冷えと牡蠣しづくする潮くさきまで
寒流をわたりて來たる烏賊のむれ潮を透して赤くひらめく
かがり焚く榾の炎に狂ひつつ(ぶり)ら網中にひしめき泳ぐ
雲海を見下す坂は夕ぐれて衣笠草の白き花むら
曇より日は洩れをりて草原の果てにかがやく北海の潮


  
庭 芝(昭和三十七年)  渡邊文子
たより無きまでにかろがろと色白き新たなる灰火鉢に入れし
秋の日のくまなく射せる廣畑の人参の葉の茂りさやけし
舟にしてみれば侘しき水底に穂に立つ稻がそよぎつつをり
波引きしときのいとまに汀なる小石は秋の日に光るなり
成りゆきにまかせる他に術なしと心さだめて侘しかりけり


  
寒 林(昭和三十七年)  梅田敏男
吾よりも重き丸太を背負ひゆく妻がしきりに今日はいたまし
諍ひて妻と(こん)(にやく)()きてをり短かき歳晩の日が暮るるころ
二三日梟のごとき顔をしてまむしに噛まれし犬が寝てをり
雪深き椎の()(むら)をすぐるとき聲ひもじげに()(びたき)がなく
梅買ひの男が來り小半日梅をむしりて谷間に唄ふ


  
碎氷塔(昭和三十七年)  由谷一郎
碎氷塔より漁船に落す粉氷雲間もれたる冬日にきらふ
レ―ダ―のスカナ―靜かに廻しゐる船あり雨の降る岸壁に
病む妻が人はばかりてよこしたる下着を夜半に洗ひてゐたり
たづさへて生きむ一生に汝が癒えし後靜かなる幸はつづかむ
曉にひとたび目覺め眠るとき薄明はわがうへに安かれ


  
群 丘(昭和三十七年)  佐藤佐太郎
(へい)()より()(なべ)にたぎちゐる炎火(ほのほ)の眞髓は白きかがやき
季の移りおもむろにして長きゆゑ咲くにかあらんこの返花
白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし
青々と晴れとほりたりたる中空に夕かげり顕つときは寂しも
潮いぶきたつにかあらん靜かなる夜半にて月をめぐる虹の輪


  
現 身(昭和三十七年)  田中子之吉
蚊帳の内より燈を消すとシミ―ズの躰ほそりて傍に立つ
隣室に母がうなさるる聲に覺む老いて如何なる苦しみを持つ
かすかにし息づく頬に吾が涙落ちしがすでに痙攣もなし
金策を思ひ机にをりしかど沈黙は憩ひの外様をもつ
雨洩りのゆゑに置きたるバケツ等叩きて子等がひととき遊ぶ


  
石井輝之助歌集(昭和三十八年)  石井輝之助
人を憎み人に憎まれて老となる町醫者われの頑にして  
(「憎む」は原作では旧字体)
忙しさに疲れてくれば肝臓もこの頃痩せて癌かも知れぬ
昏れてゆく街の果たての赤城山見つつすべなしこの孤獨感
疸石の手術の前に故知らぬ涙流しぬ朝のベツドに
暮れてゆく赤城の上に列ぶ雲ひとつの雲が赤く映えゐる


  
信濃抄(昭和三十八年)  久保田次男
日曜の今日妻と来て桑畑の桑の落ち葉を踏めば静けし
教室の北側の子の机にも冬陽は及ぶ昼過ぎてより
病める子を山家に届け帰りには撃ちたる鴨を貰ひて帰る
曇り日の桐の畠はしづかにてたまたま通る貨車ひびきつつ
正月の休み日続く校庭の雪におりたち遊ぶ鴉ら


  
水 辺(昭和三十八年)  佐藤志満
時おきて聞こゆるゆゑに寂しきか向ひの山に風こもる音
うとまれて病むをりをりを見しかども今日は葬の人寄りてゐる
人間にかかはらぬゆゑ単純の楽しみとして花の種をまく
ためらひのなき様にして葦のまに満潮時の(みな)()ながるる
こもりたる光のごとくすがしくて水芭蕉さく流のほとり


  
丘の外燈(昭和三十八年)  黒田淑子
雪残る原に群れゐる乳牛はうすくれなゐのかなしみの色
あやまてる愛などありや冬の夜に白く濁れるオリ―ブの油
あやまちのなきこと即ち過失にて林に群れて咲くしやがの花
すこやかにならば明るき春の靴はかむと思ひまた眠りたり
つながるる確かさもたぬ愛なるに氷にうつるブラウスの青


  
馬酔木の花(昭和三十八年) 赤城猪太郎
わが孫の鼻のかたちの吾に似ると見つつゐるときゆたかに笑ふ
猪太郎を猿太郎として手紙来ぬ心あたたまるあやまちとせん
同じ動作くりかへし餌をつひばめる鶏あるとき姿勢を正す
潮ひけば千鳥の動く洲は見えて沖はるかなる水没地帯
はるかなる南に正午の日は見えて光すくなき十一月の町


  
春 蟬(昭和三十八年)  熊谷優利枝
五百人ばかりの幼児泣かしめて注射終ればのど渇きをり
父なくて育ちし娘この人にまつはりをれば涙ぐましも
梅雨のごと晴間なき日の続ければ牡丹は雨の中に開きぬ
部屋の戸を閉ざし机に寄りてをり動かばわれに涙の出でむ
冬川の流れの石に水苔ははつかに青し昼日射しつつ



  
冬薔薇(昭和三十九年)  小林慶子
一切のものたのめなき夕ぐれに冬さく薔薇のくれなゐきよし
わたつみに雲の影ありて日没のビュアンダフルカ洋上寂し
風紋の見えがたきまで夕ぐれし広き砂丘に砂はしる音
水槽に魚ら群れをりそれぞれの魚のひかりに水美しく
きざしつつ残ることなき思かと夕日照りさす卓に寄りゐつ


  
葦 洲(昭和三十八年)  薩摩慶治
移りゆく霧の切れ間に葦洲見え霜かうむりて光るは寂し
外島といふ町名のあるところ海没せれば今水のなか
貝殻のすれ合ふ如き感じにて銭にこだはる妻と吾がをり
乳房きりて胸扁平になりし妻肩を落してもの言ふあはれ
あらあらしき夕映のなか海沒の水に浸りてたつ墓石群


  
道 標(昭和三十八年)  荒木千春子
乱れたる心しづまりゆかんとす乳の香のする嬰児抱きて
子には子の幸ひあれよ伸び伸びと眠れる姿心にとめむ
這ふごとき登り続きて巨いなる岩をいだけば岩温かし
水芭蕉群れて咲きゐる沢過ぎて未だ雪深き月山に入る
別れゐし長かりし日の距りの無き如く子が吾に振舞ふ


  
残 照(昭和三十九年)  佐野冴子
クローバはなべて葉をとぢゆれて居り月未だ白き夕べの原に
唾液なき口中にパン詰めながらあふれむとする涙耐へをり
海の面雲の下層と照り合ひてあかあかと遠し海の入り日は
信濃川の川面を照らす秋の日はわがさす傘の中に反射す
すり硝子透す日のごと悲しみを保ちていつか中年になる


  
縞手本(昭和三十九年)  伊藤幸子
会へばかく別るる会ひを重ねきて慣るることなしこの悲しみに
夫の一生の遂の航海とならんとすこの航海を安くあらしめ
月賦にて家建てし我を頼り来ぬ甥二人またその姉一人
ぶよぶよになりて香の立つ柚子の実を手ぐさにしをり冬のはての日
小切れためてノートに貼りし縞手本を我は持ち居る母の亡き日より


  
遠小波(昭和三十九年)  横尾登米雄
部屋を掃くこといつよりか排悶のよすがとなりて切実に掃く
譬ふれば折々にして(あら)はるる礁のごとき罪の記憶ぞ
遥かより見れば動くなき小波のごとくにわれの一代過ぎゆく
すがれたる去年の蓮の立茎の漸くにしてかたち幽けし
いかならん心のよすが終駅に着きし電車にしばし居りたる


  
製材音(昭和三十九年)  浅井喜多治
暖かく風吹く街に出でしかば闇の中にも砂は舞ひゐつ
新しき潮のたまりは出づる潮入る潮ありて水みな動く
架線にて運ばれて来る杉材のあるとき力張りて近づく
縁側の布かたづけてゐる少女たとへば秋の光をたたむ
聞き馴れし製材音の変る音季節の移るをりをりにして


  
麦の花(昭和三十九年)  板宮清治
少女期の妻たとふれば果物(くだもの)の内にこもれる褐色の(たね)
今日ひと日はげしき風に森ありき森をいたはる言葉はなきか
雪どけの光の中に電柱は電柱の香を持ちて立ちゐき
踏切りの朝かがやきのむかうにも遮断されたる少女等が立つ
苗代の泥濘(でいねい)の中ひと日ゐて日の沈むころ虫歯が痛む