今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2019(平成31)年一覧



  二〇二〇(令和二)年六月号    


   教へし子            仲田 紘基


  十年ほど前に「歩道」誌に次の一首が載った。
  教へし子の名の記されし産直の大根買ひぬ懐
  かしければ
 実はこれは私の作品である。ただし原作の初句は「教へ子」であったのが「教へし子」と添削されている。
 添削の背景についてはのちに知ることとなったが、当初は誤植かと目を疑った。字余りになってしまったし、これでは私の意識の持ち方に乖離が生じる。教師として私が教えた当時は確かに子供だった。しかし今はりっぱに農業を営む人だ。その成人した人の「名」が記されていたのである。
 一語の名詞「教へ子」をくだいて言い換えたのが「教へし子」で、「教へ」「し」「子」の三語になる。「教へ子」が短歌に詠まれる時はすでに成人であることが多い。つまり「教へ子」は「教えた人」なのだが、「教へし子」と言えば「教えた子供」である。
 その後しばらくして、私は思いがけず次のような一首に出会った。
  教へ子は教へ子にてよし教へし子などと言ひ
  換ふる語感を疎む
 これは「歩道」の古い仲間である島原信義氏の作品。私の歌に対する感想のようにも見える。
 私の先の歌はあとに残すほどのものではない。それでも初句を「教へ子」に戻してあえて歌集に収めた。添削された形が私の「語感」だと思われることに耐えがたかったからである。
 上屋文明が教え子という言葉を激しく嫌ったと平成二十一年に清糊口敏の文章で紹介された。その賛否が新聞の投書欄に寄せられたりもした。「尊大な物言い」「高慢な気風」を感じさせるという言語感覚に共感する声や、その言葉を使う人の意識の持ち方次第だという反論など。どちらもよくわかるが、私自身は、一首全体の中で「教へ子」という言葉に教師の不遜が感じられなければいいのでは、と思っている。
 もっとも、文明のように言葉自体がだめというのでは話は別になる。大成した人に対して「教へ子」を避けて代わりに「教へし子」などと言えば、自分が教えたことがかえって印象づけられ、相手を子供呼ばわりすることにもなるだろう。一語の言い換えで解決出来る問題ではない。





  二〇二〇(令和二)年五月号    


   「歩道」の未来         秋葉 四郎


 日本現代詩歌文学館の研究紀要14号に私は「『平成』三十年、その光と影」―一結社の作歌活動・作品から結社の未来を探る―という小論文を発表した。
 「〈特集〉平成を振り返る―時代の変遷と詩歌」というテーマに応じたものである。平成三十年に限定されたテーマだから、昭和二十年五月「歩道」創刊から、昭和五十三年までの、主宰佐藤佐太郎の全盛期の活動が抜けていていささか自ら物足りないものがある。
 そこで昭和期三十年の私が重視する活動を箇条書きしておきたい。歌論として発表してあることと重なるところもあるが、容赦願う。
 第一は、「歩道」が第二次世界大戦後の社会不安、貧困等の中で、作歌によって会員に力を与えてきたことである。例えば結核が青年病であり、国民病であり、つねに国民の死因の首位を占めて来た。戦後は貧困と食糧難が拍車をかけて、昭和三十年ころまで、有為の青年男女が国立の結核療善所に隔離治療を受けていた。その入所者の多くが、抒情詩短歌や俳句に心を注ぎ、抒情詩の力を生きる支えにしていた。結社誌「歩道」は結社理念「純粋短歌」の実践によって一縷の光を掲げ進んできたのである。
 やがてその貧困時代が過ぎ、高度成長期、そのバブル崩壊期をも迎え人々は精神的、文化的渇望を満たすものを求めた。それを満たすものが「歩道」にはあって、天才歌人佐藤佐太郎のもとに共感し合って、変遷の多い時代に心を満たし、作歌とともに難局を生き抜いてきた。こうした根源的な力が抒情詩短歌にあり、「歩道」はこれを貫いている。
 今厳しい高齢社会を迎え、新たな困難にぶち当たっている。現実を現実として受け入れ、正岡子規のように阿鼻叫喚しつつ痛みに耐え、残された時間の中で、可能な仕事を果すこともあり得る。
  二十五年前の写真にうつれるは皆病者にて亡
  き人もあり            佐太郎
 『天眼』にある歌で、柏崎療養所での写真。涙と共に回顧している。
 佐藤佐太郎の「歩道」の作歌はどんな時代にも生きる力を与え、更に与えつづけるに違いない。





  二〇二〇(令和二)年四月号    


   高青邱のこと          菊澤 研一


  夜の海暑さが残る砂の上月の明かりが心も照
  らす             小井田優楽
 2月4日、第14回盛岡市小中学生短歌・俳句大会の表彰式に出た。中学生の部の特選にこの歌を取った。「夜の海の」とすればなおよく、「の」の多出も気になるようでならない。作者は背の高い、濃紺の制服の二年の女生徒である。私は敗戦直後、同じ年頃に作歌をはじめたことを思い出した。
 昭和44年「文藝春秋」新年号に佐藤佐太郎先生の「白渚日常」7首が載った。安房白浜の作である。
  時じくの筍のびし渚村髪種々とふかれてあゆむ
 同年3月17日、永言舎を訪ねたとき、先生はいわれた。「支那の高青邱の詩に〈種々たる髪を吹く〉がある。それを髪種々と転用したんだ。判った上で使っている。高青邱は30位で死んだが(一三三六~七四)、向うの詩人は修飾していうから30でも髪種々なんていう」。
 壁に志満婦人絵、先生讃の枸杞の芽の歌の色紙が掲げてあった。「枸杞ではこんなことがある。あれは精力がつくんだが、支那では寺に植えているところがあって変だという。あるべき所に植えているようには思われない。ところが道ばたに植えると、人が取って食べるので絶えてしまう。保護するためには寺に植えておけばいいわけだ」。
 同年「短歌研究」7月号に、還暦を記念する「五紀巡游」50首が出た。
  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年の心を照らせ
 私の所持する岩波・中国詩人選集の『高啓』には「髪種々」はない。当時の勤務先の図書室に「漢詩大系」があって『高青邱』を見つけた。


   不明月湾
 木葉秋
脱 霜鴻夜猶飛  (たちまちに)
 扁舟弄明月 遠
青山磯  (わたる)
 明月處處有 此處月偏好
 天濶星漢低 波寒芰荷(きか)老   (ひろくして)
 舟去月始出 舟廻月將
  (しづまんとす) 
 莫吹種種髪 但照耿耿心
 把酒
水遷 我宿湖裏  (らいす) 容(ゆるして) 
 酔後失清輝 西巌暁猿起


 集中の「贈羣上人」には「風にかたむく那智の滝見ゆ」の素因「高風揺飛泉」もある。序にいえば森鷗外は高青邱の同情者で、訳詩もある。
 冒頭の生徒はまず辞書を引き、つぎに先生に教えを請うのがよいと思う。






  二〇二〇(令和二)年三月号    


   思いつくまま          長田 邦雄


 佐藤佐太郎先生は昭和六十二年八月八日にその生涯を終えられた。十日に志満先生をはじめご家族の皆様と許された少数の会員が出席して斎場において荼毘に付された。はげしく暑い日であった。
 あの日から三十余年が経った。現在は先生にお会いすることなく、声咳に接することなく「歩道」に勉強の場を求めた会員が多くなった。先生の追求された作歌の奥義を「歩道」の全会員がそれぞれの力量に応じて実践をしている。
 さて、私が会員になった五十年以上前は先生とお会いする機会が多くあった。月一回の面会日、月一回の歌会、年一回の全国大会、年一回の年末歌会などである。
 当時はまた、秋葉四郎氏を中心に佐保田芳訓氏、故室積純夫氏などと多くの若い会員が「青の会」というグループを作って先生の勉強会を行なった。先生も私達の活動を喜んで下さった。そしてその折々に先生を囲んで楽しい時間を過ごした。私達のように先生と密接な時間を持てない現在の会員は寂しい思いをしているにちがいない。もちろん、先生が残された歌集や著書が手許にはある。これらからは先生の声が語りかけてくれるように聞こえてくる。そこで私は思う。
 先生みずからの作品の朗読、講演会の講演、歌会の作品批評、もっとプライベートに食事会の雑談等など先生の声は残っていないだろうか。もし、それらを保存できればより身近に先生を感じられるはずだ。
 同じように先生の真影は多くの会員がそれぞれのカメラに収めているだろう。旅先や海外旅行での写真、全国大会のスナップ、歌碑除幕式の様子などたくさんあるだろう。
 「斎藤茂吉」の写真集を私は持っている。「佐藤佐太郎文学アルバム」という写真集があれば、先生の姿も身近になる。もちろん、動画もあれば貴重だ。先生の姿と音声とまとめることが出来れば、先生の作品をより厚く深く理解出来る。個人的には先生の写真集を「撫づるごとくに」手に取りたいと思っている。






  二〇二〇(令和二)年二月号    


   讃嘆の声            佐保田芳訓


 佐藤佐太郎の作歌信条は、写生を根本とした「純粋短歌」である。佐太郎は十代で短歌を作り始めているが、初期の頃より詩を希求している。短歌一首において何が必要で何がいらないか自覚して作歌していたのである。十代の頃の詩人山村暮鳥との出合は佐太郎短歌の原点であると私は思っている。「真実であれ。真実であることを何よりもまづ求めろ。」暮鳥の詩集にある言葉である。「実相に観入して直観される『真実』は、一つの感情価値である。それは実在をゆがみ無く観得たときに感ずる意識の充足である。」佐太郎の純粋短歌にある一節である。初期の頃より暮鳥のごとく真実を求め続けたのであった。
  暮方にわが歩み来しかたはらは押し合ひざま
  に蓮しげりたり
 佐太郎の歌集『歩道』にある一首である。平成三十年十二月、コレクション日本歌人選として『佐藤佐太郎』が出版された。著者は大辻隆弘氏で、佐太郎の五十首余りの歌を評論している。その中に取り上げられた歌である。
 「仕事からの帰り道、私は池ぞいの道を歩く。池から生えた蓮の茎と葉が闇のなかで押し合うように揺れ合っている。その生々とした気配が私を不安にする。」大辻氏の解釈である。最後の不安にするの部分は、はたしてそうだろうか、佐太郎は蓮がこれ以上はびこる余地がないほど茂っている事に感動したのである。この一首の蓮の表現について、佐太郎は自註で志賀直哉の小説に同じ描写があるとあった。
 「遠い百姓家に咲いてゐる凌霄花が雲を洩れてさす陽を受け、遠いのに度強く眼に映つた。小さな貯水池に密生した菱の葉がそれ以上はびこる余地がない為めに他の葉を水面から押上げてゐるのを見た。」志賀直哉の小説『菰野』の一文である。佐太郎と志賀直哉の視点が同じなのが面白い。コレクション日本歌人選の中で大辻氏は佐太郎の歌を評して、憂鬱・不安・疲労などと佐太郎の短歌のいくつかを、その心情を指摘しているが、佐太郎自身そんな思いを抱いて短歌は作っていない。
 「私は何時ごろからか歌は『讃嘆』の声であるだろうと思つた」と『しろたへ』後記で言っている。短歌において真実を希求し、ゆきつく所は讃嘆である。






  二〇二〇(令和二)年一月号    


   推 敲             波 克彦


 一首を作ったその日に推敲することは勿論であるが、翌日や数日経って再びその歌を読んでみて、更に充実させることができないかと思考を廻らすことによりその一首をより高めることができる。
 『短歌清話』(秋葉四郎氏著)には随所に佐太郎先生の作歌の推敲過程が記録されている。次に一例を短歌清話の記述に従い紹介する。

  海のべの風はやくして晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  熊野路の海のほとりは(に)晴れながらしぶ
  きの如く雨の降りくる
  風はやき熊野の海のしぶきかと思ふ晴れつつ
  雨ふる時に
  海に立つしぶきの如く晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  はや風に海のしぶきに似る雨のふることのあ
  り熊野路にして
  熊野路の海のほとりは晴れながらふる雨風に
  とぶ飛沫あり
  熊野路の海のほとりは晴れながら雨ふる雲の
  わたることあり
  海のべの木草かがやき晴れながら雨ふること
  のあり熊野路は

 通信には更に次の言葉が続く。「歌ができて私は思った。『どう考へても原案以上にはならない』(メモ)として投げてしまはなかったから、この改作が出来たのである。ぎりぎりまで努力しなければならないのだ。どう考へても満足できなかったのは、大切なものが言へてゐないのだが、それが何であるか、わからなかった。見ることは作歌の時にもつづく」。
 以上は短歌清話からの引用である。先生の歌は一字一句が徹底した推敲の上に選ばれている。なぜその字その句が用いられているかを深く考えて鑑賞することが重要である。この一首が完成するまでの推敲の変遷をつぶさに見て、一宇一句が推敲により更に輝く一首に変っていくことを読み取ることができるかどうかは読み手の力量にかかっている。そして自分ならその状況にあればそのように作れるかを考えてみることが大切である。そのように考えを廻らすことにより、一首に込められた本質がわかり、自分の作歌能力が高まる。