今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2019(平成31)年一覧



  二〇二〇(令和二)年九月号    


   新しい生活様式         波 克彦


 百年に一度ともいわれる新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)により六月初めの時点で既に世界の感染者数は六百万人を超え死者も四十万人に迫り、感染は拡大の一途で未だ終息の兆しもない。筆者は三月下旬から米国法律事務所員として自宅でのテレワークに切り替えて業務を行って来たが四月に入って緊急事態宣言が発出される直前には郷里の丹波篠山の生家に居を移してテレワークを続けている。
 四月に緊急事態寡言が発出されて一か月半後に宣言が解除されたが感染拡大の第二波、第三波が来ることが確実視されている。今回の新型コロナウイルス感染を予防するワクチンも治療薬も未だ開発途上であり、それらの予防薬や治療薬が開発され実用化されてもパンデミックを抑えていくには少なくとも数年はかかるし、公衆衛生面での対応が遅れている貧困国や途上国ではそれらの予防薬や治療薬の確保には経済面での大きな障害が立ちはだかっていて世界的流行の早期の終息が一層困難になってくると考えられる。
 ウイルスはそもそも太古の昔から自然界に存在し生物と共存し(というかウイルスに端を発した病気で生命を絶たれなかった生物が地球上に生を繋ぎ)、ウイルスは変異を繰り返しながら幾たびも生物に影響を及ぼしてきており、現存生物は各種のウイルスと共存して今日に至っている。
 五月の国の専門家会議に於て、新型コロナウイルス感染拡大が終息してもウイルスが無くなるわけではなく、人は新型コロナウイルスと共存しつつ生きていくしかないことを認識した上で、従来の生活様式にただ戻すのではなく、「新たな生活様式」を考えて実行することが提言されている。
 社会でテレワークが多くなるとともに従来の勤務様式自体が見直されるようになった。外部での面談による会合や集まりの多くがZoomやTeamsなどインターネットを使ったテレビ会議に替り、更には懇親会や飲み会もインターネット飲み会などと称される方法により行われるようになった。某大手総合電機会社は勤務様式自体を在宅勤務を基本とすることに転換することまで表明している。音楽、文学などの芸術活動でもインターネッ卜による活動が始まっている。
 わが歩道短歌会においても、緊急事態宣言期間中は編集作業もテレワークでできることはテレワークにて行い、東京歌会も集会による歌会から紙上歌会に形態を変えて継続している。
 コロナウイルス問題が終息したのちもインターネットにより繋がる方式が新しい生活様式として定着していくであろう。ただ、インターネットにより繋がっている会合などの行動様式が克服できない点があることに気付いている人は少なくない。それは、インターネットによる繋がりでは視覚、聴覚による事物の認識はできてもその他の感覚(嗅覚、味覚、触覚、痛覚、温感、体感という八感のうちの六つの感覚)による認識ができないことである。
 しかし、そのことを短歌の世界について考えてみれば、例えば写生短歌は、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斎藤茂吉)を旨として作品が作られているから、出来上がった短歌作品の一首一首には、すでに八感のうちの幾つかの感覚に基づき認識された事物が一首に詠われている。その一首を視覚的に鑑賞するだけで、それが紙媒体によるものであってもインターネットなどの電磁気的媒体によるものであっても、一首に凝縮表出された事物を視覚、聴覚に加えて八感のうちの他の感覚も加えて鑑賞できるものであるという特長が備わっている。
 新しい生活様式という観点から歌会を考えてみれば、コロナ禍により集会での歌会が開けない状況下で東京歌会が行っている紙上歌会は、短歌のもつ前述の特長ゆえに十分に歌会の目的を果たしていると言えよう。しかし紙面の制約から、集会での歌会での批評をつぶさに掲載することはできない。従って、先に「歩道」平成三十一年四月に「歌会」と題して書いたように、東京歌会では佐太郎・志満先生に続く正統写生短歌の真髄の一端を秋葉四郎氏から指導いただくことができる。新型コロナウイルス問題が終息した暁には、また集会での東京歌会が「新しい生活様式」に引き続き組み入れられて、参加者の写生短歌の道への邁進に大きな支えとなることを期待したい。





  二〇二〇(令和二)年八月号    


   万葉歌人の実相観入       土肥 義治


  詩文、芸術、科学、技術など広い分野の創作活動において、先ず作者の心を対象の事物に深く潜入させ、感性にて独自の心象風景を形成する。次に、その客体の主観象を理性により客観化し、それを具体表現して他者の共感を得る作品を創造している。
 短歌の実作にあたり、斎藤茂吉の言う「実相に観入」とは、心眼にて実相を把握して主客を一体化させることであろう。万葉入は、自分の体から魂が遊離して他者に乗り移る遊離魂の発想と信仰を持っていた。感嘆した現象の人物や自然に魂を観入させる優れた感受性を持っていたと思う。
 ここでは、万葉歌人の実相観入法を具体的に観てみたい。言うまでもなく、万葉集には西暦六二九年から七五九年までの百三十年間に詠われた和歌四千五百余首が載っている。万葉百三十年間は四期に区分でき、各期の代表的歌人の短歌を取り上げて鑑賞したい。
  三輸出をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠
  さふべしや
 第一期歌人の額田王が、天智朝遷都のために近江に下った際に、途中の奈良山から大和の国魂が宿る三輸山を眺め詠った歌(巻一・一八)である。無情な雲への強い呼びかけに、古里惜別と三輸出鎮魂の切情が漂っている。
  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいに
  しへ思ほゆ
 第二期歌人の柿本人麿が近江の荒れ果てた旧都を訪ねた時の歌(巻三・二六六)であり、干鳥への呼びかけと荒都への深沈たる観入が印象的である。近江朝の鎮まらぬ霊たちが千鳥となり群れ鳴いていると人麿は感受した。
  ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川
  原に千鳥しば鳴く
 第三期歌人の山部赤人が聖武天皇の吉野離宮行幸の際に従駕し詠んだ歌(巻六・九二五)であり、千鳥の鳴く清々しい川原の夜の心象風景を詠うことで神聖な吉野を祝福した。
  うらうらに照れる春日にひばり上り心悲しも
  ひとりし思へば
 第四期歌人の人件家持の春愁詠の一首(巻十九・四二九二)であり、雲雀の鳴き声を聞きながら朝廷政争の重圧による傷心を独唱している。この景情融合の叙情歌は、孤独な自我を詠う秀歌として近代になり注目された。






  二〇二〇(令和二)年七月号    


   佐藤佐太郎の長塚節研究の書   八重嶋勲


 佐藤佐太郎著に『長塚節』という研究書がある。雄鶏社から昭和三十四年一月二十五日発行された二五三頁の本。
 後記に、「私は作歌生活の初途において長塚節の影響を多く受けた。斎藤茂吉先生は直接の師であるから茂吉の影響は勿論だが、茂吉についで影響を受けたのは節であった。節の歌の細く冴えて沁みとおるような声調を私は今でも愛してやまない」と書かれている。
そして『長塚節全歌集』(宝文館)を編集したとも書かれている。
 『長塚節』は、節の生涯・鑑賞篇・歌集篇・歌論篇・小説篇・年譜が収められている。関東平野を清く豊かに流れる鬼怒川に沿って櫟林に囲まれた一僻村の豪農長塚家の長男として明治十二年に生れた。県立水戸中学校在学中に脳神経衰弱様の病気で中途退学。この病気は生涯根治しなかったという。
「日本新聞」で子規の和歌革新の歌論「歌よみに与ふる書」を読み共鳴、明治三十三年三月、初めて子規を訪ね持参した歌数首の批評を受け、子規の枕頭において線香を点して共に矚目即詠を作ったという。四月子規庵歌会に出席、伊藤左子夫、岡麓、香取秀員等と識った。以後しばしば上京、子規を訪問、歌会に出席し、子規の感化に随順して作歌に励み、最も敬虔な子規門下の一人となった。また、子規入門は同年で、節の十五歳年長の三十五歳の左千夫と交渉。子規門で特に作歌に熱中、頻繁に往来し互いに刺激し合った。明治三十五年、子規が歿した。翌三十六年六月、節二十五歳。根岸短歌会の機関誌「馬酔木」発刊。編集同人。七月、八月関西に遊ぶ初の大旅行。以後日本各地を訪ねた。
 明治四十一年、小説を書き出す。「芋掘り」から「土」までの二年間だった。
 明治四十四年十一月、全治困難な咽喉結核が判明。大正三年九州旅行に出かけ、この頃から名歌の連作「鍼の如く」を作り初め、五回にわたって発表。
 大正四年二月八日早暁、福岡県の大学病院隔離病室で逝去。三十七歳。
 後記に「短歌はー首にながれている声調・語気というものが大切である。それはどのようなものでなければならないか、その最も美事な例が長塚節の歌にあるだろうと思う」と書かれている。





  二〇二〇(令和二)年六月号    


   教へし子            仲田 紘基


  十年ほど前に「歩道」誌に次の一首が載った。
  教へし子の名の記されし産直の大根買ひぬ懐
  かしければ
 実はこれは私の作品である。ただし原作の初句は「教へ子」であったのが「教へし子」と添削されている。
 添削の背景についてはのちに知ることとなったが、当初は誤植かと目を疑った。字余りになってしまったし、これでは私の意識の持ち方に乖離が生じる。教師として私が教えた当時は確かに子供だった。しかし今はりっぱに農業を営む人だ。その成人した人の「名」が記されていたのである。
 一語の名詞「教へ子」をくだいて言い換えたのが「教へし子」で、「教へ」「し」「子」の三語になる。「教へ子」が短歌に詠まれる時はすでに成人であることが多い。つまり「教へ子」は「教えた人」なのだが、「教へし子」と言えば「教えた子供」である。
 その後しばらくして、私は思いがけず次のような一首に出会った。
  教へ子は教へ子にてよし教へし子などと言ひ
  換ふる語感を疎む
 これは「歩道」の古い仲間である島原信義氏の作品。私の歌に対する感想のようにも見える。
 私の先の歌はあとに残すほどのものではない。それでも初句を「教へ子」に戻してあえて歌集に収めた。添削された形が私の「語感」だと思われることに耐えがたかったからである。
 上屋文明が教え子という言葉を激しく嫌ったと平成二十一年に清糊口敏の文章で紹介された。その賛否が新聞の投書欄に寄せられたりもした。「尊大な物言い」「高慢な気風」を感じさせるという言語感覚に共感する声や、その言葉を使う人の意識の持ち方次第だという反論など。どちらもよくわかるが、私自身は、一首全体の中で「教へ子」という言葉に教師の不遜が感じられなければいいのでは、と思っている。
 もっとも、文明のように言葉自体がだめというのでは話は別になる。大成した人に対して「教へ子」を避けて代わりに「教へし子」などと言えば、自分が教えたことがかえって印象づけられ、相手を子供呼ばわりすることにもなるだろう。一語の言い換えで解決出来る問題ではない。





  二〇二〇(令和二)年五月号    


   「歩道」の未来         秋葉 四郎


 日本現代詩歌文学館の研究紀要14号に私は「『平成』三十年、その光と影」―一結社の作歌活動・作品から結社の未来を探る―という小論文を発表した。
 「〈特集〉平成を振り返る―時代の変遷と詩歌」というテーマに応じたものである。平成三十年に限定されたテーマだから、昭和二十年五月「歩道」創刊から、昭和五十三年までの、主宰佐藤佐太郎の全盛期の活動が抜けていていささか自ら物足りないものがある。
 そこで昭和期三十年の私が重視する活動を箇条書きしておきたい。歌論として発表してあることと重なるところもあるが、容赦願う。
 第一は、「歩道」が第二次世界大戦後の社会不安、貧困等の中で、作歌によって会員に力を与えてきたことである。例えば結核が青年病であり、国民病であり、つねに国民の死因の首位を占めて来た。戦後は貧困と食糧難が拍車をかけて、昭和三十年ころまで、有為の青年男女が国立の結核療善所に隔離治療を受けていた。その入所者の多くが、抒情詩短歌や俳句に心を注ぎ、抒情詩の力を生きる支えにしていた。結社誌「歩道」は結社理念「純粋短歌」の実践によって一縷の光を掲げ進んできたのである。
 やがてその貧困時代が過ぎ、高度成長期、そのバブル崩壊期をも迎え人々は精神的、文化的渇望を満たすものを求めた。それを満たすものが「歩道」にはあって、天才歌人佐藤佐太郎のもとに共感し合って、変遷の多い時代に心を満たし、作歌とともに難局を生き抜いてきた。こうした根源的な力が抒情詩短歌にあり、「歩道」はこれを貫いている。
 今厳しい高齢社会を迎え、新たな困難にぶち当たっている。現実を現実として受け入れ、正岡子規のように阿鼻叫喚しつつ痛みに耐え、残された時間の中で、可能な仕事を果すこともあり得る。
  二十五年前の写真にうつれるは皆病者にて亡
  き人もあり            佐太郎
 『天眼』にある歌で、柏崎療養所での写真。涙と共に回顧している。
 佐藤佐太郎の「歩道」の作歌はどんな時代にも生きる力を与え、更に与えつづけるに違いない。





  二〇二〇(令和二)年四月号    


   高青邱のこと          菊澤 研一


  夜の海暑さが残る砂の上月の明かりが心も照
  らす             小井田優楽
 2月4日、第14回盛岡市小中学生短歌・俳句大会の表彰式に出た。中学生の部の特選にこの歌を取った。「夜の海の」とすればなおよく、「の」の多出も気になるようでならない。作者は背の高い、濃紺の制服の二年の女生徒である。私は敗戦直後、同じ年頃に作歌をはじめたことを思い出した。
 昭和44年「文藝春秋」新年号に佐藤佐太郎先生の「白渚日常」7首が載った。安房白浜の作である。
  時じくの筍のびし渚村髪種々とふかれてあゆむ
 同年3月17日、永言舎を訪ねたとき、先生はいわれた。「支那の高青邱の詩に〈種々たる髪を吹く〉がある。それを髪種々と転用したんだ。判った上で使っている。高青邱は30位で死んだが(一三三六~七四)、向うの詩人は修飾していうから30でも髪種々なんていう」。
 壁に志満婦人絵、先生讃の枸杞の芽の歌の色紙が掲げてあった。「枸杞ではこんなことがある。あれは精力がつくんだが、支那では寺に植えているところがあって変だという。あるべき所に植えているようには思われない。ところが道ばたに植えると、人が取って食べるので絶えてしまう。保護するためには寺に植えておけばいいわけだ」。
 同年「短歌研究」7月号に、還暦を記念する「五紀巡游」50首が出た。
  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年の心を照らせ
 私の所持する岩波・中国詩人選集の『高啓』には「髪種々」はない。当時の勤務先の図書室に「漢詩大系」があって『高青邱』を見つけた。


   不明月湾
 木葉秋
脱 霜鴻夜猶飛  (たちまちに)
 扁舟弄明月 遠
青山磯  (わたる)
 明月處處有 此處月偏好
 天濶星漢低 波寒芰荷(きか)老   (ひろくして)
 舟去月始出 舟廻月將
  (しづまんとす) 
 莫吹種種髪 但照耿耿心
 把酒
水遷 我宿湖裏  (らいす) 容(ゆるして) 
 酔後失清輝 西巌暁猿起


 集中の「贈羣上人」には「風にかたむく那智の滝見ゆ」の素因「高風揺飛泉」もある。序にいえば森鷗外は高青邱の同情者で、訳詩もある。
 冒頭の生徒はまず辞書を引き、つぎに先生に教えを請うのがよいと思う。






  二〇二〇(令和二)年三月号    


   思いつくまま          長田 邦雄


 佐藤佐太郎先生は昭和六十二年八月八日にその生涯を終えられた。十日に志満先生をはじめご家族の皆様と許された少数の会員が出席して斎場において荼毘に付された。はげしく暑い日であった。
 あの日から三十余年が経った。現在は先生にお会いすることなく、声咳に接することなく「歩道」に勉強の場を求めた会員が多くなった。先生の追求された作歌の奥義を「歩道」の全会員がそれぞれの力量に応じて実践をしている。
 さて、私が会員になった五十年以上前は先生とお会いする機会が多くあった。月一回の面会日、月一回の歌会、年一回の全国大会、年一回の年末歌会などである。
 当時はまた、秋葉四郎氏を中心に佐保田芳訓氏、故室積純夫氏などと多くの若い会員が「青の会」というグループを作って先生の勉強会を行なった。先生も私達の活動を喜んで下さった。そしてその折々に先生を囲んで楽しい時間を過ごした。私達のように先生と密接な時間を持てない現在の会員は寂しい思いをしているにちがいない。もちろん、先生が残された歌集や著書が手許にはある。これらからは先生の声が語りかけてくれるように聞こえてくる。そこで私は思う。
 先生みずからの作品の朗読、講演会の講演、歌会の作品批評、もっとプライベートに食事会の雑談等など先生の声は残っていないだろうか。もし、それらを保存できればより身近に先生を感じられるはずだ。
 同じように先生の真影は多くの会員がそれぞれのカメラに収めているだろう。旅先や海外旅行での写真、全国大会のスナップ、歌碑除幕式の様子などたくさんあるだろう。
 「斎藤茂吉」の写真集を私は持っている。「佐藤佐太郎文学アルバム」という写真集があれば、先生の姿も身近になる。もちろん、動画もあれば貴重だ。先生の姿と音声とまとめることが出来れば、先生の作品をより厚く深く理解出来る。個人的には先生の写真集を「撫づるごとくに」手に取りたいと思っている。






  二〇二〇(令和二)年二月号    


   讃嘆の声            佐保田芳訓


 佐藤佐太郎の作歌信条は、写生を根本とした「純粋短歌」である。佐太郎は十代で短歌を作り始めているが、初期の頃より詩を希求している。短歌一首において何が必要で何がいらないか自覚して作歌していたのである。十代の頃の詩人山村暮鳥との出合は佐太郎短歌の原点であると私は思っている。「真実であれ。真実であることを何よりもまづ求めろ。」暮鳥の詩集にある言葉である。「実相に観入して直観される『真実』は、一つの感情価値である。それは実在をゆがみ無く観得たときに感ずる意識の充足である。」佐太郎の純粋短歌にある一節である。初期の頃より暮鳥のごとく真実を求め続けたのであった。
  暮方にわが歩み来しかたはらは押し合ひざま
  に蓮しげりたり
 佐太郎の歌集『歩道』にある一首である。平成三十年十二月、コレクション日本歌人選として『佐藤佐太郎』が出版された。著者は大辻隆弘氏で、佐太郎の五十首余りの歌を評論している。その中に取り上げられた歌である。
 「仕事からの帰り道、私は池ぞいの道を歩く。池から生えた蓮の茎と葉が闇のなかで押し合うように揺れ合っている。その生々とした気配が私を不安にする。」大辻氏の解釈である。最後の不安にするの部分は、はたしてそうだろうか、佐太郎は蓮がこれ以上はびこる余地がないほど茂っている事に感動したのである。この一首の蓮の表現について、佐太郎は自註で志賀直哉の小説に同じ描写があるとあった。
 「遠い百姓家に咲いてゐる凌霄花が雲を洩れてさす陽を受け、遠いのに度強く眼に映つた。小さな貯水池に密生した菱の葉がそれ以上はびこる余地がない為めに他の葉を水面から押上げてゐるのを見た。」志賀直哉の小説『菰野』の一文である。佐太郎と志賀直哉の視点が同じなのが面白い。コレクション日本歌人選の中で大辻氏は佐太郎の歌を評して、憂鬱・不安・疲労などと佐太郎の短歌のいくつかを、その心情を指摘しているが、佐太郎自身そんな思いを抱いて短歌は作っていない。
 「私は何時ごろからか歌は『讃嘆』の声であるだろうと思つた」と『しろたへ』後記で言っている。短歌において真実を希求し、ゆきつく所は讃嘆である。






  二〇二〇(令和二)年一月号    


   推 敲             波 克彦


 一首を作ったその日に推敲することは勿論であるが、翌日や数日経って再びその歌を読んでみて、更に充実させることができないかと思考を廻らすことによりその一首をより高めることができる。
 『短歌清話』(秋葉四郎氏著)には随所に佐太郎先生の作歌の推敲過程が記録されている。次に一例を短歌清話の記述に従い紹介する。

  海のべの風はやくして晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  熊野路の海のほとりは(に)晴れながらしぶ
  きの如く雨の降りくる
  風はやき熊野の海のしぶきかと思ふ晴れつつ
  雨ふる時に
  海に立つしぶきの如く晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  はや風に海のしぶきに似る雨のふることのあ
  り熊野路にして
  熊野路の海のほとりは晴れながらふる雨風に
  とぶ飛沫あり
  熊野路の海のほとりは晴れながら雨ふる雲の
  わたることあり
  海のべの木草かがやき晴れながら雨ふること
  のあり熊野路は

 通信には更に次の言葉が続く。「歌ができて私は思った。『どう考へても原案以上にはならない』(メモ)として投げてしまはなかったから、この改作が出来たのである。ぎりぎりまで努力しなければならないのだ。どう考へても満足できなかったのは、大切なものが言へてゐないのだが、それが何であるか、わからなかった。見ることは作歌の時にもつづく」。
 以上は短歌清話からの引用である。先生の歌は一字一句が徹底した推敲の上に選ばれている。なぜその字その句が用いられているかを深く考えて鑑賞することが重要である。この一首が完成するまでの推敲の変遷をつぶさに見て、一宇一句が推敲により更に輝く一首に変っていくことを読み取ることができるかどうかは読み手の力量にかかっている。そして自分ならその状況にあればそのように作れるかを考えてみることが大切である。そのように考えを廻らすことにより、一首に込められた本質がわかり、自分の作歌能力が高まる。