歌壇の窓  【最新版】 【2003(平成15)年~2023(令和5)年一覧



   二〇二三(令和五)年「歩道」十二月号    


     「表現のメッセージ性と内部急迫」その2 樫井礼子


 
前回はメッセージ性のある歌とは、抒情詩である短歌から読者の心に響くものが自ずと出現することを述べた。
 茂吉と佐太郎の歌論にメッセージとか伝達というものがあるか探ってみたが見い出すことができなかった。(茂吉の論に「短歌に詠み込む材料」「大道演説和歌」の内容や言葉はあるが)
 茂吉の『童馬漫語』では「作歌の態度」にて次のように言っている。
 予が短歌を作るのは、作りたくなるからである。何かを吐出したいといふ変な心になるからである。この内部急迫から予の歌が出る。(中略)予は万人に示さむがために歌は作りたくない。作歌の際は願はくは他人を眼中におきたくない。『無常の世の短き生涯に、願はくはまことの己の一部を残したい』おのれに親しまむがためである。
 一方、佐太郎は『純粋短歌』の「純粋短歌論」にて次のように言っている。
 いま私は独詠歌の方向に向かつていることを告白しなければならない。他に対して語る時如何に真実というものが失われやすいかという反省を今私は得ている。私は自らの生の律動だけを詩として追求しようとしている。
 「万人に示さむがため」の歌を排し、「他に対して語る時如何に真実というものが失われやすいか」という認識をもちつつ、読む者の心を深く捉えてきた二人の歌人の作品が、実はメッセージに富んでいることを実感する。
 次の茂吉の晩年の歌を見てみる。
  暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死
  といへるもの        『つきかげ』
  目のまへの売犬の小さきものどもよ成長のの
  ちは賢くなれよ       『つきかげ』
 佐太郎の歌からも一首引いてみる。
  いまわれは老齢の数のうちにありかつて語ら
  ぬ人の寂しさ          『星宿』
 これらの歌からは、死への達観、生けるものへの愛情、老いにおける哀感がそれぞれ作者の吐露や告白から読者の胸へと確かに響いてくるものがある。作者が意図しないまでも重いメッセージとして届くのである。二人の歌人を継承する秋葉四郎の歌からも抄出する。
  炎だつ人の影あり虚の写生実の写生を極めた
  る絵は         『東京二十四時』
 ここにも写生の虚と実とを複合的に示して表現者への箴言が籠もっている。
 以上から、表現者の心の「内部急迫」によって、如何に真実がメッセージとして伝わるか実証できると言えよう。
 坂本龍一は余命がわずかになった時、気に入りのスタジオで自らの作品をピアノで演奏した。その時の坂本の微笑と恍惚とした表情は印象的であり、今までに聴いた坂本の曲の中で最も心に深く響いてきた。これは坂本からのメツセージのような気がしてならない。



   二〇二三(令和五)年「歩道」十一月号    


     「表現のメッセージ性と内部急迫」その1 樫井礼子


 
 今年の三月に亡くなった坂本龍一は、かつてはあれほどメッセージを込めた楽曲を作っていたが、晩年は、かつて国家に利用された曲や演劇があったこともあり、それを彷彿とするからメッセージ性の強い曲は作りたくないと言い、自分の曲から何か感じてもらえればそれでいいと述べていた。最晩年は、自然界の音や同期を伴わない音楽に創作の方向をとり「音のスケッチ」なる作品を手がけて自分の作りたい曲を目指した。内から湧き出でるものを大切にしていたように見える。
 一方現歌壇では、特に政治的な内容の歌になると自らの考えや主張を表現しているものが見受けられる。そのような形の歌があっても自由だが、単なるポリシー羅列の歌では、読む者の心に沁みこんではこない。
 佐太郎が言うように「短歌は抒情詩であり抒情詩は端的にいえば詩である」から、この基本的な条件に入らない非詩の作品は真の短歌とは言えないだろう。私たちの受け継いでいる短歌は、自分の見て取った情景や現実を歌って、その根底をつかみ永遠につながるものを感動の本体としている。根本には必ず詩があるのである。その作者の心情は読者の心に響き、それぞれの解釈となりメッセージとなって読む者に届く。
 佐太郎の『星宿』に次の歌がある。
  遺伝子の組み換へをする事聞けばかかる進歩
  にこころをののく
 ここでは遺伝了組み換えの事実について肯定も否定もしておらず、ただ「かかる進歩にこころをののく」と受けた戦慄を下句にて率直に吐露し、遺伝子組み換えという対象に自分は戦いたという事実を感動の本体としている。そういう局面に入ったという時代の変化と、神の領域のごとき遺伝子操作がいよいよ始まるという衝撃が、論理を越えて作者の心に入ってきたのであり、この感動の主体である詩となっている。読者は直接にこの感動を受け取り現実把握として同感するだろうし、遺伝子操作への連想などに思いを巡らす人もいるかもしれない。個性的な写生歌でありつつ読者に与える思考の幅は豊かになってくる。これは結果的にメッセージとも言えるだろう。
 佐太郎は『純粋短歌論』の中で次のように述べている。「短歌などは所詮は「自分自身との会話」に終始すべきもののやうに思はれてならない」。詠歎であり告白でありつつ、それは外に向かって発するのではなく、自ら真実の詩に行き着くのである。この詩の重さによって読者の心が動くことが真のメッセージになるのかもしれない。
 次回は、茂吉と佐太郎の歌論にある「内部急迫」に視点を移して考えたい。



   二〇二三(令和五)年「歩道」十月号    


     短歌を胸で受け止める(二)   大塚秀行


 
 私は当麻寺の中之坊の庭園で佐太郎が感じた「夢幻の世界」を実感できたと思った。これは、作者と同じ環境に自分を置いてみて一首の真意を実感しようとした試みであった。
 さて、今回は歌に関わる解説などから一首の真意を実感しようとした経験を述べてみる。
 斎藤茂吉の『赤光』に、
  たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く
  散りゐたりけり
という一首がある。上句と下句の情景•内容はそれぞれ分かる。しかし、上句と下句の関連が分からなかった。戦と鳳仙花とどう繫がるのか。しばらく経って、佐藤佐太郎の『茂吉秀歌』の中の「上句と下句と別々のことをいっているが、この独特の形態は、説明を排して状態を投げ出すようにいって、言葉には説明しがたい感情・空気というものを表現しょうとしているのである」を読み、さらに、「紅い鳳仙花の散る景にある沈黙と倦怠のこころ」と「上海に起った戦」とが生み出す「一種鬼気迫るような息づまる静けさが感じられる」に深く納得したのである。
 同じく斎藤茂吉の『赤光』に
  赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき
  歩みなりけり
という一首がある。一読して情景•内容は分かる。しかし、茂吉は何を詠嘆したのだろうか、腑に落ちないのである。そんな状況の中で、秋葉四郎歌集『蔵王』の「あとがき」に次のようなヒントがあった。「写生」には「気」の写生というものがあり、目に捉えにくい、気迫、気配、風情、感情等を描いたものがあるというのである。さらに、斎藤茂吉の「赤茄子の」の一首も「気の写生」で、雰囲気、気配を写生していると述べているのだ。私は成程と思った。茂吉は、赤茄子の成熟の果てにある哀愁のような気配を感じとって一首のように詠嘆したのだろうと思ったのである。
 二つの例を挙げ、解説などによって歌の真意を実際に感得しようとしてきた経験を述べてみた。前回と併せて、このように一首を理解しようとすることを、私は「短歌を胸で受け止める」ことだと思っている。すなわち、一首を読み、情景や内容を捉え、共感、同感しながら、安易に分かったとせず、一首を真に「腑に落ちる」まで、様々な過程を通して分かろうとすることが大切だと思っているのである。
 水耕栽培しているアボカドだが、毎日水替えをして、四十日経ってようやく根と芽が出て来た。俵万智の「言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ」の一首の真意がようやく分かってきたと思っている。



   二〇二三(令和五)年「歩道」九月号    


     短歌を胸で受け止める(一)   大塚秀行


 
今年の角川「短歌」二月号に、「アボカドの種」と題された俵万智(心の花)の作品の中に次の一首があった。
    
「模様より模様を造るべからず」富本憲吉
  言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの
  種芽吹くのを待つ
 一首のおおよその意は理解できた。詞書にある富本の意は、既成の模様の模倣を許さず「自然から模様を探る」創作者の厳しい姿勢を説いたものであろう。この創作姿勢から、俵の初句二句に「安易に既成の言語表現を用いない」とする覚悟が詠まれていることが分かる。ここで、一首の三句目以降の「アボカドの種」がどう関連しているのかがはっきりと分からなかった。その種から芽吹くまでおそらく大変なので、言葉をつむぐことの困難な喩えとして使ったのだろうと予想はできる。しかし、いわゆる「腑に落ちない」のである。
 こんな時、私は無理に歌が分かったとせず、歌の真意が自らの中に確かに分かるまで待つことにしている。ここで「待つ」というのは何もしないことではない。その歌と同じ状況に自己を置いたり、歌に関わる解説や「自註」を読んだりしながら、歌の真意に自己の内部が発酵して近づくのを待つのである。私は現在「アボカドの種」の水耕栽培をしている。その様子を観察しながら「腑に落ちる」自己の発酵を待っているのである。
 さて、佐藤佐太郎の『群丘』に、
  白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてそ
  の音はなし
という一首がある。第一義的な意味での歌の情景・内容は分かる。しかし、歌の真意が分からなかった。佐太郎の『自註』に「大和当麻寺の中之坊の庭園に白藤がある。花にむらがつてゐる蜂の翅音は耳を聾するばかりだが数歩へだたるとその音は聞こえない。私は 夢幻の世界を通り過ぎたやうだつた」とあるが、読んでも「腑に落ちない」のである。特に「夢幻の世界」が実感されないのである。
 私は無理をして分かったとせず、自身の発酵を待っていたところ、大和当麻寺を訪ねる機会を得たのである。この当麻寺は奈良盆地の西部、二上山の麓にあった。街の喧騒から遠く離れて境内は静まり返っていた。佐太郎が、「白藤の」を詠んだ中之坊の庭園の白藤の前に立った。藤の咲く時期ではなかったので蜂の音はなかったが、藤から離れて佇んだ。この時、私の胸に「腑に落ちる」ものがあった。この庭園には音が全くないのだ。「静寂」という真只中に私は居たのである。蜂の翅音から離れたとしたら、「夢幻の世界を通り過ぎた」のを実感しただろう。(次回に続く)



   二〇二三(令和五)年「歩道」八月号    


     (続)詩的真実とは       中村 達


 先月号で、詩的真実の重要性を書いた。今月は佐太郎の箴言のような『作歌真』『作歌真後語』と詩的真実との関わりを、写生の面から見つめ直して見たい。
 『作歌真』『作歌真後語』は、会員にとってなくてはならない作歌の指針である。短文であるが、重要な意味を含んでいる。だが内容は難しい。一つ一つ意味を捉えることは、佐太郎と同じ意識にならなければならない。この短文の奥にあるものは、写生である。この写生の受け止め方が、それぞれ振幅があるだろう。写生と言うと、見たままを素直に感受すると思いがちだが、それは写生ではない。佐太郎が言うただ事の歌である。 私は、写真で写したような対象は、写生ではないと思っている。また常識的通俗な歌も写生とは言えないであろう。
 詩的真実は、この写生が陥ってしまう欠点を補うものとして、短歌にとって大切なものだと思う。アララギが終焉してしまった主な原因がここにあったのではないだろうか。
 写生を万能のように思うと間違いである。累々たるただ事の歌が生まれてしまう。しかも作った本人が気づいていないケースが多いであろう。 『作歌真』のなかの 「思を積み」 『作歌真後語』 において「作者の影のあるを要す」「何故であるかといふ所まで思ふのも見る働きである」 が、詩的真実の裏付けになる言葉である。見たままでは歌にならない。その奥にあるものを感受しなければならない。
 詩的真実の本質は、短歌が文学として存在価値があるかないかが問われている。短歌は誰もが入り易い形式の詩であるが、文学的短歌を作ることは、易しいことではない。
  冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に
  海はかくるる          (開冬)
 この歌は、冬の素材ではなかったが、冬の海として秀歌になった。また実際に、一つの波で海が隠れてしまうだろうか、などの思いを越えて、真実の声として迫って来る。『作歌真後語』 に 「作者の影あるを要す」「言葉のひびきに更に遠韻が添わなければならない」 など、これが詩的真実の具体例であると思う。
 写生は作歌にとって重要であるが、安易に凭れかかってはならない。先の佐太郎の歌を見ても、見たままではないはずである。冬の海の本質を捉え、限定と単純化によって、秀歌になったのである。見たままではない。そこには作者の思い、想像、構成力など、見たままではない、対象の本質的な把握が必要である。この隠れた部分、 つまり奥行きがなければ、秀歌とはなり得ない。『作歌真』『作歌真後語』をもう一度読み直し。自分独自の歌論を待たなければならないだろう。



   二〇二三(令和五)年「歩道」七月号    


     詩的真実とは          中村 達


  『奥の細道』は、芭蕉が命をかけて完成させた紀行文である。誰もが高く評価した紀行文であり、文学的価値も高いとされている。そのリアリティーは、人の心を打つ文学であった。しかし同行した曽良の日記が発見されてから、リアリティーの一部に疑義が持たれている。曽良の日記と芭蕉の句に齟齬があったからである。何故そのようなことになったのだろうか。そこには「詩的真実」があった。
 「詩的真実」とは何か。おもに短詩型文学に関わる表現の方法である。芭蕉の 「奥の細道」 で言えば、奥州平泉の金色堂での句
  五月雨の降り残してや光堂
に見ることが出来る。曽良の日記によると、当日は晴れであったと言う。 しかし俳句では雨になっている。事実とは違うのである。何故事実とは違った表現をしたのか。
 歴史的に名高い光堂を詠むとき、芭蕉は事実の本質を超えて、真実の姿を見たのであろう。短詩型は、事実だけを表現すれば良いのではない。対象の本質を見極め、表現において事実を越えた真実を表わさなければならない。そこに短詩型の詩の役割がある。晴れでも雨とすることによって、時空を超えた作品になったのである。 事実を変えてまで本質に迫ろうとした、芭蕉の心を考えなければならない。それが「詩的真実」 である。
 短歌に於いてはどうか。 「歩道」 は作歌の方法として写生を基としているが、「詩的真実」 との関わりは如何なのだろうか。例えば佐太郎の秀歌と言える作品で見てみよう。
  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年のこころを照らせ
この歌が歌碑になっている場所に行った。そこに立って、この歌を鑑賞しても、下句のような感受、表現はとても出来るものではない。そこには写生を越えた作者の心が、「詩的真実」として表現されている。「詩的真実」とは、一人の経験や体験の感受を越えて、想像や修辞などを含めた、あらゆる技術を駆使して心の中に醸しだされた、すべてを作品に投影することである。写生だけでは解決の出来ない問題である。
 佐太郎はいつも、報告的な歌、事実べったりの歌、ただごとの歌を排除すべきと言っていた。そこに「詩的真実」があったからである。 写生は 「詩的真実」を得て完成する。
 写生は作歌の一つの方法ではあるが、全てではない。茂吉の写生、佐太郎の写生は何であったか、「詩的真実」を表現するには如何したらよいかを、考えなければならない。佐太郎は、短歌は九十九パーセント技術であると言った。「詩的真実」は、短歌に於ける重要な技術である。 (参考「言葉が輝くとき」辻邦生)



   二〇二三(令和五)年「歩道」六月号    


     夢かうつつか          上野 千里


 「むかし、男あり」から始まる「伊勢物語」の六十九段に、次のような歌がある。伊勢神宮の斎宮で文徳皇女恬子(やすこ)内親王と在原業平の贈答歌である。
  君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつ
  か寝てかさめてか       (一二五)
  かきくらす心の闇にまどひにき夢かうつつか
  こよひ定めよ         (一二六)
(あなたが来られたのか、それとも私の方から行ったのか、よくわかりません。あれは夢だったのか、眠っていたのでしょうか。目ざめていたのでしょうか。)
(涙に目もくれ、心も闇にまようような状態で、何も区別がつきません。あれが夢だったのか、現実だったのかは、今晩たしかめて下さい。)
と新潮日本古典集成に注釈がある。
 六十九段の物語の内容は割愛するとして、斎宮の「夢かうつつか寝てかさめてか」は、今もって世に知られているフレーズであり、返しの業平の歌は「夢かうつつかこよひ定めよ」と大胆である。
 神に仕え禁欲な生活を強いられている内親王は、業平を目の前にした時に、心の奥の恋心が一気にあふれ出たであろうし、また業平は、相手の立場は百も承知で、あるまじきゆゆしき事とは思いながらも、もう一度逢いたいと募る情熱を抑える事が出来ず、内親王の斎宮としての立場、業平の神の聖域にみずから行く事の出来ない立場が、このような夢幻的で優艶な贈答歌となったのだろう。周囲の目を怖れ、戸惑い、罪悪感のなか、思う人に思われ、求める人に求められるという男女の理想的な願望一致の歌は、私の調べの不足もあるが多くないように思えるのである。
 この後の話として、一夜の契りで恬子内親王は懐妊をして、生れたのが高階師尚(たかなしもろひさ)といわれ、この事が原因で後々の皇位継承争いに敗れたと記録している人がいるらしいのだが真偽のほどは不明とされ、また「伊勢物語」の解説に、「この贈答は、昨夜の出来事が現実とは思われぬ斎宮の立場と感情、それでも今夜もう一度逢いたいという業平の情熱のやりとりであり、この話が事実かどうか議論の分れるところだが、実話と信じる風潮は早くからあり、聖域の斎宮との許されざる恋として末代までの語り草となった」と記されている。
 「夢かうつつか寝てかさめてか」と私達は気軽に使う時がある。しかしこの言葉は、苦しく激しい恋の歌からの出典だったのである。




   二〇二三(令和五)年「歩道」五月号    


     花鳥一対の歌(萬葉集より)   上野 千里


  六朝から初唐にかけて中国では花と鳥を合せて詠む花鳥詩が盛んとなり、花鳥を題材とする詩(漢詩)が遣唐使などを通じてわが国にもたらされた。花や鳥それぞれに特別な霊力が宿ると信じられ、人間に禍福をもたらす神秘的な力が内在すると思われていた。花が咲き乱れ、鳥が群れとび鳴き囀ることは生命力にあふれていることを示す瑞祥とされ、日本の詩歌において花鳥一対の歌を最初に詠んだのは額田王であると、このような事が萬葉集新潮古典集成の解説に見られる。
 今日においては花鳥一対の歌は珍しくなく、ごくありふれたものに様変りしているが、万葉人が花や鳥に呪的なものを感じていたのだとしたら、現在私達が失ったものの考え方や感じ方を真摯な心で詠嘆したのだろうと思いつつ、代表的な組合せとされている「梅に鶯」「花橘に時鳥」「萩に雁」の一対の歌が萬葉集にどの位あり、どのような歌かに注目して見た。
 「梅に鶯」一対の歌は十三首ある。(長歌を含む。ネット調べ 以下同)
  春されば木末隠りてうぐひすぞ鳴きて去ぬな
  る梅が下枝に   若麻呂(巻五・八二七)
 春をよぶ梅の花に季節の移る喜びを感じ、うぐいすの声に災厄をのがれる春の生気が伝わって来る。
 「花橘に時鳥」一対の歌二十八首。
  ほととぎす何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響
  むる    大伴家持(巻十七・三九一二)
 橘は非時香菓(ときじくのかくのみ)と言われ、いつまでも香り高い果実に尊い生命が宿ると信じられていた。永遠に栄える常緑樹がめでたく、時鳥のするどい鳴き声に邪気を払い長寿を願うものであった。「玉貫く月し」は橘の花を飾った薬玉を作る月で四月から五月頃だったらしいが五月五日の説もあると萬葉集の注釈にある。
 「萩に雁」一対の歌八首。
  朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも
  我がやどの萩 光明皇后(巻十九・四二二四)
 萩の語源は「生(は)え芽(き)」とする説があり、春に必ず芽が生えるとされ、また雁は遠く離れた人の音信を伝え、萩の開花と渡来がほぼ同時と見なされ、幸福をもたらす鳥とされていたと、これも萬葉集に注釈がある。
 情報化社会となり世界中の出来事が瞬時に伝わり、医療や通信、交通、その他、過去にはなかった文明、技術などが飛躍的に進歩した世となったが、困難や悲喜に直面したとき神仏はもとより、花や鳥に呪的を感じ安寧を願う万葉人の花鳥一対の歌に何かを学んだような気がする。




   二〇二三(令和五)年「歩道」四月号    


     技               香川 哲三


  過日に、京都のある建物についての放映がなされていた。主題は、美しい日本建築の随所に散りばめられた伝統的建築技術である。その中で「技をかくす」というテロップが静かに流された。柱組、或いは透かし彫り、漆塗りなどに於いて、表には見えない技術が駆使されており、そうしたものの総体として、建物の堅固な躯体と機能性、建物と調度品・装飾が一体となった建築美が、訪れた人々を温かく迎え入れるというのである。「技をかくす」、或いは「見えないところで技を使う」という言葉から、私の思いが及んだのは、作歌技術についてである。 
 佐藤佐太郎は作歌の殆どは、技術によって解決されるという趣旨のことを語っていた。言葉では言えない微妙な感情を言葉を通して捉えようとするのが作歌だから、確かにその通りである。持ち得る作歌技術の全てを傾けて、一首一首を成していた佐藤佐太郎の短歌六五〇〇余首は、そうした努力の賜物である。しかしながら、「技」そのものは作品に潜流しているのであって、決して表立ってはいない。
 作歌の技が、作品から目に見えて感じられるようになったのは、古今集、新古今集あたりからであると断言して良い。明治の短歌革新運動の中で、子規が万葉集を評価し、古今・新古今を厳しく批判した一因も、見せびらかすような「技」の嫌味にあったと私は見ている。そうした子規の姿勢は、人麿の「もののふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも」の上三句を「贅物」と評したり、芭蕉の「五月雨」の句に対し「蕪村の句またこれに劣らず」とした姿勢にも投影されているだろう。現歌壇の作品は多彩で、一口には言い難い面があるのだが、平然と「技」を表に出した作品が、新しいとか奇抜だとかいう言葉で称揚されている現実は否めない。「技」を表に出す、或いは「技」を見せびらかすといった類の歌には、詩歌の核心たる詩情が技の中に埋没しているだろう。作歌に当たっては、少なくとも「見えないところで技を使う」くらいの配慮をして貰いたい。私たちは、子規が何を思い短歌革新を推し進めたのか、斎藤茂吉が「写生」一語に込めていたものは何であったのか、佐藤佐太郎が「純粋短歌」と言ったのは何故なのか、改めて原点回帰する必要があるだろう。「写生」「純粋短歌」という言葉を、時流に阿ることなく、堂々と言い続ける、そうした気概を私は持ち続けて作歌したい。
 ロゴスとフィシスの関係性から言えば、常にフィシスを腹に据えて作歌する、決してロゴスを先走りさせないという覚悟を、今更ながら思うのである。




   二〇二三(令和五)年「歩道」三月号    


   道元の歌              香川 哲三


  道元の歌といえば、次の一首を思い起こす人も多いだろう。
  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずし
  かりけり
 川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演で紹介したことでも知られており、詞書に「本来の面目を詠ず」とある。
 道元については、佐藤佐太郎が折々に書き記しており、また上田三四二もいい文章を残しているから、私も若い頃から折に触れて関心を抱き、幾つかの書物を読んだ挙句に、永平寺にまで足を運んだのであった。しかしながら、道元の主著『正法眼蔵』をはじめ、目を通したものはどれも難解で、書かれている言葉の多くが理解できないまま現在に至っている。考えてみれば道元の教えは「只管打座」に象徴されるように、実践をもってしか近づき得ないものだろうから、私の不理解も当然のことなのかも知れない。それでも「前後際断」「刹那生滅」などという言葉に私は、写生短歌の意味を見出し、また励まされながら作歌を続けてきたように思うのである。
 一方、道元が残した歌は、凡人の私でもおおよそ理解ができそうに感じたのであった。道元の歌は、死後に見出された草稿などに書かれていたもののようで、それらを弟子たちが丹念に集めて、『建撕記』という道元最初の伝記の諸本に附載されて世に知れたのだという。また、『正法眼蔵』の諸写本に付されたものもあるといい、それらは総数約六十余首だというから、数も多くはない。松本彰男著『道元の和歌』は、そうした由来や、道元の教義にも深く分け入りながら、一首一首を丹念に解説したもので、好著である。覚束ない感性を通し、同書に取り上げられている四十九首に、この度じっくりと目を通したのであった。それらの多くは、私の心を揺り動かすというものでは無かったが、冒頭に挙げた一首に加えて、
 夏冬のさかひもわかぬ越の山ふる白雪も鳴る
 いかづちも
などという作も見えて、堂々とした声調と中身は、ともに常人の及ばない作だと深く感銘したのであった。
 道元にしてみれば、歌は浄業の余技であったのかも知れない。だがしかし、こうした作をも成し得ていたことに、私は得も言われぬ感動を覚えたのであった。作歌などというものは、斎藤茂吉もまた言うように、業余のすさびなのかも知れない、だが時代を超えて、人の心に訴え続ける言葉の力を持った詩型であることも厳然たる事実である。
 難しい教義に難儀しながらも、道元の歌を読み、充実した時間を送り得た一日は、私にとってかけがえのものとなった。




   二〇二三(令和五)年「歩道」二月号    


   まののかやはら           佐々木比佐子


  佐藤佐太郎『短歌を味わうこころ』(角川書店一九八八年)のなかに、「すすき」という文章があり、その後半には、次のように記されている。

 
いつか仙台から福島県いわき市まで車で行ったのも、ある晩秋の日だった。幼年のころ、父母の話に聞いた、竹駒稲荷に参詣して、それから福島県にはいって、相馬、磐城の道を遠く行くと、銀のすすきの穂がゆく道のさきざきに躍っていた。『万葉集』に「みちのくのまののかや原遠けども」という、そのままのながめだった。後に「秋の日に踊るすす きといふ比喩をよろこぶまでに穂はみづみづし」という歌を作ったが、この時の印象が忘れられない。

 当日の事は、私の父片山新一郎の『佐藤佐太郎随考』(短歌新聞社一九九二年)に、「昭和四十九年十月二十七日、仙台の東北短歌大会講師として招聘された先生夫妻は、翌朝、湯本に泊られるので、私も同伴した。」とあり、「途中、車が広い野を横ぎったが、道の両側に穂の長けたすすきの群落が続いていた。」と記している。いわき市湯本の山沙草房に向かう途次の事であった。
 宮城県から福島県を一行が南下した国道六号線は、現在の南相馬市鹿島区の真野川を渡る。芒などが繁茂するこの流域一帯こそが、歌枕の地「真野の萱原」であり、『万葉集』巻三の笠郎女の歌、「陸奥之真野乃草原雖遠面影為而所見云物乎」の「真野乃草原」そのものであった。
 もっとも笠郎女が、真野乃草原を実際に見たというわけではなく、当時の都の人々の間で、「陸奥之真野乃草原」は遠いものの象徴として認識されていたらしい。
 扇畑忠雄『家持とその後(著作集第二巻)』(おうふう一九九六年)には、

 
古墳で代表される真野の古代文化は、多分に中央文化の影響なしには成立しなかったであろうが、多くの中央軍官の進出居住や往反によって逆に、辺地の「みちのくの真野」が都に語り伝えられたことであろう。彼らは帰京後も同地に係恋し、「みちのくの真野の草原遠けども面影にして見ゆ」と自分も思い、人にも告げたにちがいない。

 慣用句のように、「陸奥之真野乃草原」は、当時都で流布していたようである。
 ここで考えてみたいのが、中央軍官が懐いた同地への「係恋」ということである。忘れられない印象を懐いて彼らは都へ戻り、その思いは言葉にあふれて、人に告げやる。何やら重なるのは、それから千数百年の時間を経て、佐太郎が述べた「この時の印象が忘れられない」との感慨である。



   二〇二三(令和五)年「歩道」一月号    


   歌 枕               佐々木比佐子


 新型コロナウイルス感染の第七波が東京都でピークを越えたのは八月初旬の事であっただろうか。二〇二二年の夏も行動制限の日々を送り、展覧会等からは遠ざかっていたのだが、初秋のこの頃、サントリー美術館で開催されていた「歌枕展」を見た。
 歌枕は元来、枕詞や歌題その注釈や地名等、歌にかかわる言葉を解説した書物を指していたらしいが、平安時代末期には専ら「歌に詠まれる名所」を意味するようになっていた。そしてその名所は、永い時間をかけ数多くの人々が歌に詠み続ける営為を通して、単なる地名としてではなく、背後に共有する特定のイメージを持つ所謂「歌枕」になったというのである。
 展覧会場を訪れると、近世初期の豪華な屏風数点に迎えられた。紅葉図は龍田、桜花図は吉野のイメージとして、また秋草の咲く芒野原に月と富士山を配した図は武蔵野、柳橋水車図は宇治をふまえて描かれたものという。このように景物を描くことにより、象徴的に歌枕は表現されて、その歌枕に込められた世界へと見る者をいざなうのである。
 景物で表現される歌枕は、やがて意匠の源泉として、硯箱などの文房具、家具から衣装、鏡や櫛、茶道具等に及ぶまで広くあしらわれ、展示の品々からは、歌枕がかつての人々の生活の中に豊かに息づいていた様子がうかがわれた。
 そして最も興味を引かれたのが、旅が命がけの行為であった時代に実際に旅に出でて歌枕の現地を訪れた人々を伝える絵巻等の展示であった。「西行物語絵巻」の白河関において、西行は奥州行脚の先蹤たる能因法師を思い、荒れ果てた関屋の柱に歌を書きつけた。その西行を偲んで「一遍上人縁起絵」には、西行にならって柱に歌を書きつける一遍と他阿らが西行と同じ姿に描かれるのであった。松尾芭蕉は西行五百年忌にあたる元禄二年に奥州行脚に出立し、歌枕を訪ねた旅の体験が『おくの細道』を成立させた。与謝蕪村は芭蕉を慕い、若き日にその跡を追ってみちのくを放浪しており、後年「奥之細道図」を描いている。
 このように、先人の旅により歌枕の地は語り継がれ、歌枕は磁力を放ち、更にそれを追体験する人々が後々までも跡を追う。近代においても、明治二十六年七月東北地方の旅に出た正岡子規は「はて知らずの記」を、同年同月に与謝野鉄幹と鮎貝槐園(落合直文の弟)は「松風島月」を著わしている。
 あらためて歌枕というものが日本の伝統文化の柱としてこの国の真のたからもののように思われて来てならなかった。




   二〇二二(令和四)年「歩道」十二月号    


   「佐太郎とジョン・レノン」その2  樫井 礼子


 前回は、佐太郎の「大衆が受け入れるものをも探求する態度」について提起した。単なる流行としてではなく、歌人としてビートルズの楽曲の歌詞に注目し、多くの人を感動させる誘因に関心を持ったからという内容で書いた。
 昭和四十三年の「短歌」にて佐太郎は、陸放翁の言葉「汝はたして詩を学ばんと欲せば、工夫は詩外に在り」を紹介して、それを技術外の問題だとし、通俗さ平俗さというものを超えるという事についてもいえると述べている。
 また、青年には青年の境地があると言ってそれぞれの境涯に即して地金を出すのが作歌と言い、自身の杯で歌を作ることを助言する佐太郎の言葉からも答えはあると言える。
 大衆が受け入れるものに対する関心について、佐太郎はNHKの教育テレビや新聞などのメディアに触れて短歌観を考えることもあったから、多くの人々がどのような視点を持って生活し、価値を受け入れているかという現実を認めること、明らかにすることは、普遍的な芸術を考える上で必要であるとしたのではないか。それがビートルズのようなロック音楽の歌となると、抒情詩である短歌の根本に関わると思ったとも推測できる。そういう事実も写生の精神につながることになるし、粗雑な歌を作る現歌壇を憂いながらも、大衆の意思とか現状を見つめる態度は大事にしていたと思われる。多くの人の心を動かす作用というのは並大抵ではない。その原点を見極めることは疎かにできないことと知っていたのであろう。ただし、佐太郎は「芸術の民衆化は、低級な作品を民衆におくるということであってはならない。芸術の民衆化は民衆の芸術的感受性を養い高めるもの」とも言って、大衆に受け入れられる芸術は、人間の奥底から生まれる衝迫のあるべきものとしている。
 また、佐太郎の歌論を改めて見返してみると、自由で率直を旨としているから、大衆の求めるものを大事にするというのは不思議なことではないだろう。「短歌は人間的であらねばならない」と言い、人間的に活き活きとした美しさのある詩をも目指す佐太郎であるからこそ、背景を異にする多数の人々の感性を疎かにしなかったと思われる。但しその内容は浅いセンチメンタリズムでなく命の律動のような意味のある感情を孕んだものであるべきことは言うまでもない。
 ジョン・レノンの作詞は残念ながらその域に達していなかったかもしれないが、六年前のノーベル文学賞にボブ・ディランが「米国の歌の伝統において新たな詩的表現を創造した」として受賞したことを今更に想起している。




   二〇二二(令和四)年「歩道」十一月号    


   「佐太郎とジョン・レノン」その1  樫井 礼子


 秋葉四郎先生の第六歌集『新光』に次の歌がある。
 佐太郎とジョン・レノンとのかかはりはつひにわれのみ知りて過ぎんか
 これはジョン・レノン忌に回想して作られた歌で、連載している私の拙文にてその背景を紹介したが秋葉先生の言葉として一部再掲する。
 ビートルズが世界を席巻し、日本にも来て大騒ぎになったころ、どんな詩で歌って人の心をひいているのか興味を持ち、その翻訳詩を見たい希望で、(中略)翻訳冊子を先生に提供した。膨大な量のものだったが、先生が目を通し、感想を言われたことがある。詩は大したことないのに世界を凌駕するのはリーダーのジョン・レノンの力だなどとも言っていた。私は佐太郎先生の関心の持ち方にひどく心打たれて忌日に回顧してこの歌が残っている。大衆が受け入れるものをも探求する態度は佐太郎論の一角になるエピソードと思っている。
 以上の内容から、歌人佐藤佐太郎の作歌に対する態度について一考する必要を思ったのでテーマとしたい
 佐太郎は通俗を超えて本物の佳い歌として写生短歌を目指し生涯鍛錬を続けた歌人であるが、その佐太郎をして一ロックバンドのビートルズとジョン・レノンの詩に関心を抱かせたものは何だったのか、単に世界中を湧かせていたからでないことは明らかである。曲想はともかく、その歌詞による若者の心情の表現とそれによって多くの人々が心惹かれる様を見て、その詩とはどういうものであるか真実を知りたくなったのではないだろうか。この姿勢は、「時代に遅れまいとして安易な流行に漂っていては一生を棒に振ってしまう(『短歌作者への助言』)」と言った佐太郎の一方の態度であるが、それはある意味一つの筋が通っているとも言える。安易な流行としてではなく、世界の人々はどのような価値を受け入れ支持していくのかという定立を自分の中で掲げること、そして、そのような支持を受けるジョン・レノンの詩とはいかなるものかという歌人詩人としての欲求ゆえの希望であったのだろう。
 ビートルズを立ち上げたり1リーダーのジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。このようなジョンの楽曲は、常に自己表現に徹しており、たとえば言葉の響きを命とする短歌にとって、外界の詩に於ける語気等として親しいものがあっただろう。ただし「詩は大したことない」とジョンの楽曲を評しているところを見ると、ビートルズの歌は深みがなく幼稚だったのかもしれない。(続く)




   二〇二二(令和四)年「歩道」十月号    


   戦争を詠う(二)        大塚 秀行


 「戦争」は、武力による国家間の闘争である。ここで、戦争を考える上で肝要なことは、国と国とのそれまでの歴史、それぞれの国の政治・軍事体制、宗教や思想等々の要素が絡み合って戦争は起こるという認識を持つことである。従って、それらの視点に立って戦争を詠むのも歌の必然となる。
 一方、そのような視点で歌を詠む場合、作者には深い歴史観、国家観、人間観等々が要求される。これらが根底にあって戦争を詠む時、強く共感を覚える歌が生まれるのである。そのような観点で「歩道誌」を読むと、次のような作品にたどりく。
    ○     秋葉 四郎
  現実に主権国家に侵攻し破壊と殺戮まざまざつづく
  国際法違反といへど大国のゆゑほしいまま侵略をする
  侵略の悪に立ち向ふ地球規模の制裁なきか何かもどかし
    ○     香川 哲三
  争ひの無き世を想ひ迎へたる三千年紀も遂に虚しき
  躊躇はず国境超えて進む軍是非なき専断政治の果てに
  権威主義或いは国家資本主義ひそかに育みゐたりし世紀
 秋葉の歌の背景にあるのは、現代の国家の存在の危うさであり、どれだけの血を流しても人類が「平和」を獲得できないもどかしさや憤りである。香川の歌の背景にあるのは、人類の歴史の中で「戦争」が絶えないことへの怒りであり、それを生み出す政治をつくる人間の愚かさである。秋葉、香川の歌はそれぞれ深い歴史観、国家観に支えられており、読む者を佇立させ、深く考えさせ、強く共感を覚える歌となっているのである。
 さて、戦争詠を考えるとき、次の歌は是非とも記憶にとどめて置きたい。
          波  克彦
  アウシユビツツを訪ひしは八年前にして歌を一首も作り得ざりき
          佐藤佐太郎
  砲弾の作裂したる光には如何なる神を人は見るべき
          斎藤 茂吉
  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
 波は、アウシュビッツにて一首も歌が詠めなかったと詠嘆してユダヤ人虐殺の惨を見事に伝えている。佐太郎の歌は、朝鮮戦争の際の一首である。砲弾の光には如何なる神も存在しないと戦争を強烈に糾弾しているのである。茂吉は、戦争賛歌の歌への厳しい反省、自戒して生きる悲哀を「沈黙」と詠んだが、この圧倒的な重さが戦争の虚しさを強く伝えているのである。




   二〇二二(令和四)年「歩道」九月号    


   戦争を詠う(一)        大塚 秀行


 令和四年二月二十四日、ロシアによるウクライナヘの侵攻が始まった。これは対岸の火事ではなく、国際社会の中において日本も当然関わらなければならない問題であり、日本政府もウクライナヘの人道支援・ロシアヘの経済制裁を進めている。このような状況にあってわれわれ歌人はどう対応すべきであろうか。
 われわれは東日本大震災の時にその犠牲者を悼み、被災者に心を寄せつつ作歌を続ける中で連帯を示してきた。今回の戦争でも、戦争を詠いウクライナの人々への連帯を示すことは、大変意義深く思われる。歌はかすかな存在だが、必ずや平和へのうねりにつながると思うからである。
 そこで、どのように戦争を詠えば多くの人々の共感が得られるか。「歩道」六、七月号の作品から考えてみたい。
  わが生れし昭和のごとき戦乱を憂ふるうつつ思ひても見ず 仲田 紘基
  敗戦の悲惨身に沁む世代にてをののき止まずロシアの侵攻 浦 靖子
それぞれ作者自身が実際に戦争を体験しての事実だから切実で重い。歌は自分に引きつけ詠嘆するとき、読む者に圧倒的な感銘を与えるということを再確認させられる。
  かつての日ロシアに求めしマトリヨーシカ棚に並ぶを悲しみて見る 鈴木 眞澄
  幼子をかかへて友はキエフより着のみ着のまま退避せしとぞ 三上 敦子
この二首も、実際に自分が経験したこと、あるいは身近な人が現実に経験した具体を詠うことにより歌に力が与えられ、読む者にしみじみとしたあわれが伝わる。身近な現実が戦争のむなしさを浮かび上がらせているのだ。
 一方、今回はウクライナという日本から九千キロ離れた地での戦争であり、その情報の多くはテレビの報道番組や映像によるものである。映像の背後には発信者の思惑もあるだろう。そのような中で次の歌が印象に残った。
  公道に坐して戦車の侵攻を阻める民の映像あはれ 竹本 英重
  爆撃は産科小児科にも及ぶ狂気の沙汰と言ふほかになし 千田 節夫
  中立を維持して仕事する筈の通訳は訳しつつ泣き崩れたり 菅 紀子
どの映像を詠うのかに作者の思いがあり、それぞれの具体が戦争の悲惨さを鮮やかに伝えている。その背後にあるのは作者の平和への強い希求である。




   二〇二二(令和四)年「歩道」八月号    


   佐太郎短歌の受容(下)        中村 達


 次の三首は、佐太郎の短歌である。
 
 夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝きを垂る
  白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし
  生死夢の境は何か寺庭にかがやく梅のなかあゆみゆく
 一首目の歌は、自然を凝視して瞬間と断片を表現した作品である。見事な枝垂れ桜を前にして、作者は何に心が動かされたのか。それは言葉にできない程の感動だろう。絞り出すように言葉にしている。だが何か充たされないものを感じる。秀歌ではあるが、そこには人の存在が見えてこない。対象の中で自己完結している様に思えるのだ。
 二首目は、歌碑にもなっているので、作者にとって自信作だろう。白藤に騒がしく飛ぶ蜂、房花も蜂も命の輝きである。下句によって、作者と生き物の存在が浮き立ってくる。自然と作者の時間、空間を共にした瞬間を、動きの中で捉えている。
 三首目は、前二作とは違って、虚と実の取り合わせが見事であり、新たな次元を生み出している。「生死夢の境」は、蘇東坡より来ているのだろうが、人生を達観したような、深い言葉である。言葉は何を使っても良いが、作者の身についた言葉でならなければならない。虚の表現が成功するには、下句の事実の具体的把握が無ければならないのは当然である。この虚と実が上手く融合しているために、事実以上に歌に膨らみが生まれた。
 この三首の歌を見て来ると、佐太郎が「作者の影」と言った言葉を思い出す。
 佐太郎は、晩年の「作歌真後語」の中で、「作者の影」を主張していた。
一首目の自然詠とこの「作者の影」との関わりを考えると重要な問題を含んでいることに気付く。ただ目に見える自然を詠んでも自然詠にはならない。自然を写しただけの歌を佐太郎は認めていなかった。自然(対象)と作の距離感が問題になる。主観・客観の融合したところに真の自然詠は生まれるのである。写真の様な歌は味わいが無い。
 いま歌壇では自然詠に対する見方が厳しい。自然詠はどうしても作品が自己完結してしまう点にあると思う。対象を丁寧に見て表現するだけではなく、作者の姿が見えてこないといけない。
 晩年、佐太郎が主張した「作者の影」を更に進展させて、独自の自然詠を表したい。いまの歌壇を納得させるような自然詠を示すことが重要である。改めて「作者の影」を考えつつ作品に生かす工夫をしたい。




   二〇二二(令和四)年「歩道」七月号    


   佐太郎短歌の受容(上)        中村 達


 『純粋短歌』は佐藤佐太郎の歌論である。その歌論は、歌集『帰潮』の作品と車の両輪の関係にあった。私か短歌を始めた頃、作歌とこの歌論との乖離に苦しんでいた。
 佐太郎の歌論・歌集は、何度も読んでいたのだが、吸収しきれていなかったのだろう。ある時、『群丘』の作品を読んで、自分なりに少し、会得するものがあった。
  ただならぬ夜の群集のみつる上やや遠き旗しきりに動く
  衝動のごとき拍手のひびきあり幾くたびとなくところを替へて
  群集のこぞれる声すあるときは切実にして静かになりぬ
 一連三首の歌である。この一連を読むと、連作でありながら一首一首が単独でも味わうことが出来る。
 まだ労働運動が活発であった時代である。思想的にもリベラルの主張が社会的主流であった。作者は、示威行動(デモ)を冷静に、客観的に見ている。そこには感情の揺らぎはない。何処までも冷静で、感覚的である。逆に言えば、ここに佐太郎の考えている純粋短歌の本質があったのである。三首とも瞬間と断片の姿として捉え、静的ではなく、群集の動きの中に、対象を捉えている。
 一首目、「ただならぬ」と言って、夜の群集の様子を捉えている。二首目、この歌で純粋短歌が少し分かった様に思った。対象の切り取り、言葉の選択、単純化など余分な表現はない。三首目、最も感覚的に捉えた歌で、動から静に移る群集の雰囲気を一気に捉えている。三首とも動揺することなく、あくまでも対象を直視している。そして瞬間を見事に切り取っている。
 どの様なデモか。作者に関係があるのか。場所は何処か。街角か、広場か。作品の本質的なもの以外は全て切り捨てている。この作歌方法に純粋短歌を見たのである。
 この歌には、社会性や思想性はない。無いことが純粋短歌なのである。二義的なものを排して、無くてはならないものだけを掬い取っている。批判する人は、佐太郎に社会性が無いと言うだろう。しかし、それが純粋短歌なのである。
 佐太郎の歌としては、あまり取り上げることのない歌であるが、私にとって、作歌の参考になった、掛け替えのない歌である。
 後年、佐太郎は、作歌の指針を「作歌真」として表わし、純粋短歌を補完している。また最晩年には、「作歌真後語」を表わし、「作歌真」を補完している。佐太郎短歌が深化して行く過程の歌である。




   二〇二二(令和四)年「歩道」六月号    


   茂吉『赤光』考(二)         高橋 良


 茂吉は東京にあっても生まれ故郷である山形を思った。『赤光』には、生家の菩提寺である宝泉寺(浄土宗)で見たものをもとに詠んだ「地獄極楽図」という一連がある。
 佐藤佐太郎は『茂吉秀歌 上巻』の冒頭に「地獄極楽図」の一首を選んでいる。
  白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
   「地獄極楽図 明治三十九年作」十一首中の十首目。
 「白き」と「しろく」で漢字表記と仮名表記に分けている。「かがやき」も仮名表記である。同様に、「赤き」と「あかき」で漢字表記と仮名表記に分けている。「華」はやはり漢字で、「光」も漢字表記である。ここで歌集名の『赤光』が出てくることとなる。
「白き華しろくかがやき」と「赤き華あかき光を放ち」とは並列関係となり、どちらも「ゐるところ」に繋がる。
 この一連は、十一首中十首が「ところ」という体言止めである。この表現が正岡子規の「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ」という歌の影響下にあることは有名である。
 また、一連の初めの九首は地獄についての歌、あとの二首は極楽についての歌である。茂吉の生家近くの宝泉寺にある『地獄極楽図』全十一幅がもとになっている。初版では「白き華しろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ」で「赤き光り」というふうに歌集名『赤光』と関わりをより感じさせる表記になっていた。題は、仏説阿弥陀経という経典の「池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」という一節がもとになっている。
 この一連ではどうしても「地獄」の歌に目が行きがちである。しかし、ここでは「極楽」の二首に注目してみたい。一連の最後の十一首目は、
  ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下り来るところ
という歌である。ここには書かれていないが仏の存在が見えてくる。その周りにいる人々のありがたがる顔とゆらゆらと下りてくる雲とが描写されているだけである。しかし、その雲の上に仏がいることは容易に想像できる。極楽浄土で一切衆生を救う役割を担う仏。それを直接的に詠まないところに茂吉の巧みさが出ていよう。




   二〇二二(令和四)年「歩道」五月号    


   茂吉『赤光』考(一)         高橋 良


 一八八二(明治十五)年五月十四日、山形県南村山郡堀田村金瓶(現山形県上山市金瓶)に、守谷伝右衛門熊次郎といくとの間の三男として茂吉が生まれた。後に遠戚にあたる斎藤紀一の養子となり、斎藤姓となった。二〇二二(令和四)年は茂吉生誕一四〇年である。
 また、この原稿を書いている日は、ちょうど芥川龍之介の生誕一三〇年にあたる。芥川は一八九二(明治二十五)年三月一日、東京府東京市京橋区(現東京都中央区)に生まれた。
 芥川は茂吉『赤光』に感動し「僻見」などに賛辞を書いている。
 二〇二一(令和三)年、山形県上山市にある斎藤茂吉記念館では、特別展「日記と歌で辿る斎藤茂吉の素顔」とオンデマンド配信の「斎藤茂吉ものがたり その魅力、その偉大さ」で長年眠っていた茂吉の日記を公開した。そこで注目を集めたのは、芥川自殺の報を聞いた日、一九二七(昭和二)年七月二十四日の記述である。その「日記6」〔一九二六(大正十五)年十一月十二日から一九二七(昭和二)年八月一日〕は、縦一八一mm×横一〇八mm×厚さ十七mmで、二十一行書き、行幅は五~六mmである。一ページにつき一日分の日記となっている。
 そこに「改造社ノ山本社長ヨリノ電話ニテ芥川龍之介氏が毒薬自殺シ、午後八時二納棺トノコトデアツタ。」という記述がある。斎藤茂吉記念館の特別展でもオンラインツアーでもその字を見られた。これについて記念館館長の秋葉四郎は「歩道」令和三年十月号で、
  芥川自殺の知らせ受けし日の茂吉の日記文字の乱れず
と詠んでいる。
 毒薬自殺ということだが、催眠薬での自殺だったという。
  死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬をのみて寝んとす
 茂吉『赤光』初版「大正二年(七月迄)」の「悲報来」十首中の六首目。茂吉は師伊藤左千夫の死を受け入れられずにいる。
 「眠り薬」すなわち催眠薬は、十九、二十世紀に多くできた。戦時中、茂吉はこの歌についての解説で「催眠薬は後年一種の流行になり、保健上害毒を流したが、その時分には専門家が用意して持って歩く程度のものであった」(『作歌四十年』)と書いている。茂吉は島木赤彦宅で催眠薬を飲んで床に着く。師左千夫の死を受けて、幾分精神的な落ち込みないしは昂ぶりがあったことだろう。





   二〇二二(令和四)年「歩道」四月号    


   言葉のルーツ             香川 哲三


 二〇二一年も終りに近づいた頃、小さなニュースが流れた。それは、私たち日本を含むトランスユーラシア語族のルーツが、約九千年前に中国東北部の西(せい)(りょう)()流域でキビ・アワを栽培していた民であり、農耕の普及と共に数千年をかけて、東は日本から、韓国、満州、シベリア、モンゴル、西はトルコに至るユーラシア大陸に広く拡散していったというものである。言語学、考古学、遺伝学(人類学)をもって構成する国際的・学祭的な研究の成果だというし、各分野の研究結果はどれも同じ方向を向いているとも伝えていた。
 私はそのニュースにしばらく釘付けになった。理由は単純である。私達に心地よいリズム感を与えてくれる五音七音の繰り返しは、日本固有のものだろうが、他民族にも似たような、音数をベースにした詩歌があっても不思議はないだろうと長年考え続けていたからで、その回答の一端を知り得たように思ったからである。
西遼河流域から日本へは、朝鮮半島で水田稲作も加わり、約三千年前にやってきたといい、十一世紀以降のグスク時代には、九州から琉球へも広がったともある。研究者の一人は、先住者の縄文人の言葉は、アイヌ語として残っているとも述べているらしい。
 翻って、隣国の朝鮮半島では、十四世紀頃に成立したという三音・四音を基本とする定型詩「時調」が存在している。形式は日本と異なるが、音数を基本にしているところが興味深い。
 一方、中国の定型詩では、日本で定義するところの漢詩(近体詩)があり、こちらは五言(一句)又は七言(一句)で構成され、句の数により絶句とか律詩とかに分けられている。漢字一文字の「語」を単位とする漢詩は、発音の単位である音節レベル(日本語のあ、い、う・・・の類)で言えば、音数を基礎に置いた詩型とは言い難い面がある。語順も主語→動詞→目的語と続くし、音に抑揚をつけるなど、日本語とは異なった性格を持っている。因みに、中国語は我々とは異なるシナ・チベット語族に属している。
 以前から、韓国の言葉は日本語に似ていると感じていた私には、先に述べた研究結果は、素人ながらも合点がゆくものだった。各国で育まれている文化は、国土、気候、民族性、生活、統治などの諸要素が複雑に絡み合った結果のものだろう。気忙しい今の世の中にあっても、伝統詩型を盛んに作り続けている日本は、あるいは特殊な国の一つであるのかも知れない。その基盤には、万葉集があり、それを評価した子規が居て、その精神を継承発展させた歌人群像を今更ながらに思うのである。




   
二〇二二(令和四)年「歩道」三月号    


   歌集出版のこれから          香川 哲三


 日本固有の定型詩である短歌や俳句では、個人の作品を集めた書籍(歌集・句集等)が盛んに出版されているが、その多くは、これらを広く紹介し得る雑誌や新聞を持った出版社が担っており、それぞれに、優れた書籍、乃至は作品を顕彰するための賞を設けている。こうしたツールを有しない社においても歌集・句集などを出版してはいるが、著者にとってどのような版元が魅力的かということになれば、前者に軍配が上がるのであろう。
 しかしながら一方では、多くの著者が、出版経費や残部などの課題を抱えているというのも現実の姿である。
 そうした問題点を軽減するために、必要な部数のみ随時印刷出版するオンデマンド方式、組版から印刷・出版などの諸工程を一元化して経費を節減する社など、今では随分と多様化しており、歌集などを出す際の選択肢が増えている。そうした動きの根底には、デジタル化技術がある。現在では、大半の出版がDTP(デスクトップパブリッシング)に置き換わっており、私達が直接目視することの出来ないデジタルにより出版作業が支えられている。最終的なアウトプットを紙に印刷するのか、ディスプレイ上に映し出すのかという段階に於て、紙の本と電子書籍との間に質的な差異が表れてくるのである。
 少し前のことではあるが、A社から、電子書籍と併せて、紙書籍の出版も日本で可能となったというメールが届いた。A社の方法(セルフ出版)によれば、出版経費は不要となり、在庫問題も無くなる上に(一冊単位で販売)、本の価格も著者が設定でき、ロイヤリティー(印税)も高い。
 三歳にも達しない幼児が、器用にスマホやタブレットを触る時代である。加えて折り畳み式のディスプレイなども実用化されつつあるから、近い将来、電子書籍も紙書籍に近いような質感を具備するのかも知れない。
 歌壇という歌人社会を多面的に支えてきた短歌関係の総合誌・新聞や出版社・印刷所の行末を思う時、或いは歌壇ジャーナリズムと共に歩んできた多くの歌人のみならず、それら個々の評価を、ジャーナリズムを通して受け止めてきた数多の短歌愛好者にとっても、無視できない変革が起きつつあるのではないかと、遅ればせながら私は感じている。
 真に優れた短歌作品、歌集を、他者の評価に委ねることなく、自身の力量によって見極める力を得る、こうした真摯な努力と姿勢が、先に述べた変革にも、柔軟に処してゆくことが出来るのではなかろうか。そのためには、愚直なまでに地道な作歌努力が欠かせないように私は思うのである。




   
二〇二二(令和四)年「歩道」二月号    


   茂吉とわが父 ―若き歌人への言葉―  佐々木比佐子


  昭和二十一年一月、二十二歳のわが父片山新一郎は、斎藤茂吉に教えを請い、歌稿を疎開先の金瓶に送った。六十五歳の茂吉は、その歌稿に赤鉛筆で大小のある丸印と「よし」の評を付し、墨書のコメント「君の歌なかなか旨いところあり、眞面目に寫してゐてよい。この調子で進まれよ」を添えて、終戦後の物資の乏しいなか紙質上等の白い封筒に宛名を書き切手を貼って、盛岡に住む父のもとに送り返してくれた。それに感激した父は、即時に岩手産の苹果を茂吉に送っている。茂吉は礼状を父に書いた。このやり取りが、岩波の斎藤茂吉全集に書簡番号五七四五、五七六二として収められている。苹果の礼状に書かれた「御歌は傾向御よろしきにつきあの儘にて執拗に御進み願上候短哥はどうしても長年つゞけねばならぬものゆゑ右呉々も御覚悟のほど御願申上候」の茂吉の言葉は、若きわが父の胸に迫るものであったはずである。
 このあと間もなく茂吉は、金瓶から大石田に移る。父の歌稿に、茂吉は「小生既に老境(中略)罹災轉居の身上也、以后決して返事出来ません」と記していたのだが、諦めきれない父は再び歌稿を茂吉に送った。この時茂吉は発熱し病臥療養中であり、茂吉に代わって父の歌稿を添削してくれたのが、所用で大石田の茂吉を訪ねた佐藤佐太郎であった。父の著書『佐藤佐太郎随考』(短歌新聞礼一九九二年)「私の短歌の師・佐藤佐太郎」に、また二〇〇八年「歩道」一月号表紙三の「機縁懐想」に、詳しい記述がある。
 添削を経た父の歌稿は、三十七歳の佐太郎のコメント「御作歌確かにてよろし」が記され、板垣家子夫氏により、経緯を説明した手紙が添えられて、父の手元に届いた。偶然とはいえ、これらは茂吉の差配によるものであろう。丁度ひと月ほど前に、佐藤佐太郎の歌集『歩道』(角川書店による第五版)を読み深い感銘を受けていた父のこの時の驚きは、如何ばかりであっただろうか。翌昭和二十二年、父は佐太郎の勧めにより歩道短歌会に入会する。
 全集未収録の葉書もあるのだが、それはまた別の機会にして、ここでは書簡番号七一〇五、昭和二十四年五月二十七日付の、茂吉が東京に戻り代田の自宅から盛岡の父に宛てた葉書について述べようと思う。初期の歩道誌には、茂吉作品を扱った論考がよく見られるが、父も用語等について考察していたようで、それに応じた助言を茂吉は書いている。「發表をいそがずに、資料を充分に貯へて」は、研究の心得として、先達から後進への血の通ったあたたかな鞭撻である。




   
二〇二二(令和四)年「歩道」一月号    


   祝受賞『茂吉からの手紙』     佐々木比佐子


 二〇二一年の日本歌人クラブ大賞が、秋葉四郎氏の著書『茂吉からの手紙』を中心とした永年の功績に対して授与されましたこと、心よりお祝い申し上げます。
 この『茂吉からの手紙』は二〇二〇年三月、ながらみ書房からの刊行で、同年の「歩道」十一月号の表紙三に、長田邦雄氏が「二二が四」のタイトルで本書について記しておられる。そして『茂吉からの手紙』は翌春、第十二回日本歌人クラブ大言受賞の書籍となった。あらためて本欄においても、祝意を込めて、『茂吉からの手紙』を取り上げてみたい。
 長田氏は、佐藤佐太郎への手紙について述べており、また二〇二一年の「歩道」七月号には、秋葉氏の「茂吉に門人はどう酬いているか―佐藤佐太郎の場合―」〈転載〉が見られるので、ここでは、『茂吉からの手紙』が収録する女性歌人四人に宛てた手紙から、作歌についての茂吉の助言に注目して、その中から幾つかを、次に列記してみよう。

永井ふさ子宛書簡番号八四九(p11)
〇「具象的々々と御作り下さい

杉浦翠子宛書簡番号五一三(p62)
〇「専念一人の先輩に就く」
  ″  書簡番号五八八(p74)
〇「手帳に一句ぐらゐづつ写生しておく」

原阿佐緒宛書簡番号七九一四(p16)
〇「真に苦吟して御自分で選して」

河野多麻宛書簡番号四〇一三(p166)
〇「もう少しく、しぶり御苦心の必要有之候べし」

 右に掲げたこれら茂吉の助言を目にすると、歩道会員であるならば、主宰佐藤佐太郎の短歌指導の言葉としても、温かく親しく感じられることであろう。
 そしてこれらの言葉は、佐太郎没後に歩道短歌会に入会した筆者の体験としては、入会直後お世話になった名古屋短歌会の歌会における先輩方から伺った助言としても、忘れられない。佐太郎没後三十五年となる二〇二二年において、佐太郎の弟子達による歩道短歌会に、茂吉の言葉は継承されている。
 秋葉氏の『茂吉からの手紙』は、膨大な分量の全集収載書簡から数点を選び、わかりやすい解説を付している。茂吉が個人に直接宛てた言葉ゆえ、この解説に助けられて、意味が理解できるという箇所は少なくない。ひととおり読み終えて、本書を閉じたとき、帯の背に記された文字が目に留った。その一行「若い歌人のために」は、短歌をこよなく愛する茂吉と秋葉氏の、未来に向けた切なる願いであるだろう。