歌壇の窓  【最新版】 【2003(平成15)年~2019(平成31)年一覧




   二〇二二(令和四)年「歩道」九月号    


   戦争を詠う(一)        大塚 秀行


  令和四年二月二十四日、ロシアによるウクライナヘの侵攻が始まった。これは対岸の火事ではなく、国際社会の中において日本も当然関わらなければならない問題であり、日本政府もウクライナヘの人道支援・ロシアヘの経済制裁を進めている。このような状況にあってわれわれ歌人はどう対応すべきであろうか。
 われわれは東日本大震災の時にその犠牲者を悼み、被災者に心を寄せつつ作歌を続ける中で連帯を示してきた。今回の戦争でも、戦争を詠いウクライナの人々への連帯を示すことは、大変意義深く思われる。歌はかすかな存在だが、必ずや平和へのうねりにつながると思うからである。
 そこで、どのように戦争を詠えば多くの人々の共感が得られるか。「歩道」六、七月号の作品から考えてみたい。
  わが生れし昭和のごとき戦乱を憂ふるうつつ思ひても見ず 仲田 紘基
  敗戦の悲惨身に沁む世代にてをののき止まずロシアの侵攻 浦 靖子
それぞれ作者自身が実際に戦争を体験しての事実だから切実で重い。歌は自分に引きつけ詠嘆するとき、読む者に圧倒的な感銘を与えるということを再確認させられる。
  かつての日ロシアに求めしマトリヨーシカ棚に並ぶを悲しみて見る 鈴木 眞澄
  幼子をかかへて友はキエフより着のみ着のまま退避せしとぞ 三上 敦子
この二首も、実際に自分が経験したこと、あるいは身近な人が現実に経験した具体を詠うことにより歌に力が与えられ、読む者にしみじみとしたあわれが伝わる。身近な現実が戦争のむなしさを浮かび上がらせているのだ。
 一方、今回はウクライナという日本から九千キロ離れた地での戦争であり、その情報の多くはテレビの報道番組や映像によるものである。映像の背後には発信者の思惑もあるだろう。そのような中で次の歌が印象に残った。
  公道に坐して戦車の侵攻を阻める民の映像あはれ 竹本 英重
  爆撃は産科小児科にも及ぶ狂気の沙汰と言ふほかになし 千田 節夫
  中立を維持して仕事する筈の通訳は訳しつつ泣き崩れたり 菅 紀子
どの映像を詠うのかに作者の思いがあり、それぞれの具体が戦争の悲惨さを鮮やかに伝えている。その背後にあるのは作者の平和への強い希求である。




   二〇二二(令和四)年「歩道」八月号    


   佐太郎短歌の受容(下)        中村 達


 次の三首は、佐太郎の短歌である。
  夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝きを垂る
  白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし
  生死夢の境は何か寺庭にかがやく梅のなかあゆみゆく
 一首目の歌は、自然を凝視して瞬間と断片を表現した作品である。見事な枝垂れ桜を前にして、作者は何に心が動かされたのか。それは言葉にできない程の感動だろう。絞り出すように言葉にしている。だが何か充たされないものを感じる。秀歌ではあるが、そこには人の存在が見えてこない。対象の中で自己完結している様に思えるのだ。
 二首目は、歌碑にもなっているので、作者にとって自信作だろう。白藤に騒がしく飛ぶ蜂、房花も蜂も命の輝きである。下句によって、作者と生き物の存在が浮き立ってくる。自然と作者の時間、空間を共にした瞬間を、動きの中で捉えている。
 三首目は、前二作とは違って、虚と実の取り合わせが見事であり、新たな次元を生み出している。「生死夢の境」は、蘇東坡より来ているのだろうが、人生を達観したような、深い言葉である。言葉は何を使っても良いが、作者の身についた言葉でならなければならない。虚の表現が成功するには、下句の事実の具体的把握が無ければならないのは当然である。この虚と実が上手く融合しているために、事実以上に歌に膨らみが生まれた。
 この三首の歌を見て来ると、佐太郎が「作者の影」と言った言葉を思い出す。
 佐太郎は、晩年の「作歌真後語」の中で、「作者の影」を主張していた。
一首目の自然詠とこの「作者の影」との関わりを考えると重要な問題を含んでいることに気付く。ただ目に見える自然を詠んでも自然詠にはならない。自然を写しただけの歌を佐太郎は認めていなかった。自然(対象)と作の距離感が問題になる。主観・客観の融合したところに真の自然詠は生まれるのである。写真の様な歌は味わいが無い。
 いま歌壇では自然詠に対する見方が厳しい。自然詠はどうしても作品が自己完結してしまう点にあると思う。対象を丁寧に見て表現するだけではなく、作者の姿が見えてこないといけない。
 晩年、佐太郎が主張した「作者の影」を更に進展させて、独自の自然詠を表したい。いまの歌壇を納得させるような自然詠を示すことが重要である。改めて「作者の影」を考えつつ作品に生かす工夫をしたい。




   二〇二二(令和四)年「歩道」七月号    


   佐太郎短歌の受容(上)        中村 達


 『純粋短歌』は佐藤佐太郎の歌論である。その歌論は、歌集『帰潮』の作品と車の両輪の関係にあった。私か短歌を始めた頃、作歌とこの歌論との乖離に苦しんでいた。
 佐太郎の歌論・歌集は、何度も読んでいたのだが、吸収しきれていなかったのだろう。ある時、『群丘』の作品を読んで、自分なりに少し、会得するものがあった。
  ただならぬ夜の群集のみつる上やや遠き旗しきりに動く
  衝動のごとき拍手のひびきあり幾くたびとなくところを替へて
  群集のこぞれる声すあるときは切実にして静かになりぬ
 一連三首の歌である。この一連を読むと、連作でありながら一首一首が単独でも味わうことが出来る。
 まだ労働運動が活発であった時代である。思想的にもリベラルの主張が社会的主流であった。作者は、示威行動(デモ)を冷静に、客観的に見ている。そこには感情の揺らぎはない。何処までも冷静で、感覚的である。逆に言えば、ここに佐太郎の考えている純粋短歌の本質があったのである。三首とも瞬間と断片の姿として捉え、静的ではなく、群集の動きの中に、対象を捉えている。
 一首目、「ただならぬ」と言って、夜の群集の様子を捉えている。二首目、この歌で純粋短歌が少し分かった様に思った。対象の切り取り、言葉の選択、単純化など余分な表現はない。三首目、最も感覚的に捉えた歌で、動から静に移る群集の雰囲気を一気に捉えている。三首とも動揺することなく、あくまでも対象を直視している。そして瞬間を見事に切り取っている。
 どの様なデモか。作者に関係があるのか。場所は何処か。街角か、広場か。作品の本質的なもの以外は全て切り捨てている。この作歌方法に純粋短歌を見たのである。
 この歌には、社会性や思想性はない。無いことが純粋短歌なのである。二義的なものを排して、無くてはならないものだけを掬い取っている。批判する人は、佐太郎に社会性が無いと言うだろう。しかし、それが純粋短歌なのである。
 佐太郎の歌としては、あまり取り上げることのない歌であるが、私にとって、作歌の参考になった、掛け替えのない歌である。
 後年、佐太郎は、作歌の指針を「作歌真」として表わし、純粋短歌を補完している。また最晩年には、「作歌真後語」を表わし、「作歌真」を補完している。佐太郎短歌が深化して行く過程の歌である。




   二〇二二(令和四)年「歩道」六月号    


   茂吉『赤光』考(二)         高橋 良


 茂吉は東京にあっても生まれ故郷である山形を思った。『赤光』には、生家の菩提寺である宝泉寺(浄土宗)で見たものをもとに詠んだ「地獄極楽図」という一連がある。
 佐藤佐太郎は『茂吉秀歌 上巻』の冒頭に「地獄極楽図」の一首を選んでいる。
  白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
   「地獄極楽図 明治三十九年作」十一首中の十首目。
 「白き」と「しろく」で漢字表記と仮名表記に分けている。「かがやき」も仮名表記である。同様に、「赤き」と「あかき」で漢字表記と仮名表記に分けている。「華」はやはり漢字で、「光」も漢字表記である。ここで歌集名の『赤光』が出てくることとなる。
「白き華しろくかがやき」と「赤き華あかき光を放ち」とは並列関係となり、どちらも「ゐるところ」に繋がる。
 この一連は、十一首中十首が「ところ」という体言止めである。この表現が正岡子規の「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ」という歌の影響下にあることは有名である。
 また、一連の初めの九首は地獄についての歌、あとの二首は極楽についての歌である。茂吉の生家近くの宝泉寺にある『地獄極楽図』全十一幅がもとになっている。初版では「白き華しろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ」で「赤き光り」というふうに歌集名『赤光』と関わりをより感じさせる表記になっていた。題は、仏説阿弥陀経という経典の「池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」という一節がもとになっている。
 この一連ではどうしても「地獄」の歌に目が行きがちである。しかし、ここでは「極楽」の二首に注目してみたい。一連の最後の十一首目は、
  ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下り来るところ
という歌である。ここには書かれていないが仏の存在が見えてくる。その周りにいる人々のありがたがる顔とゆらゆらと下りてくる雲とが描写されているだけである。しかし、その雲の上に仏がいることは容易に想像できる。極楽浄土で一切衆生を救う役割を担う仏。それを直接的に詠まないところに茂吉の巧みさが出ていよう。




   二〇二二(令和四)年「歩道」五月号    


   茂吉『赤光』考(一)         高橋 良


 一八八二(明治十五)年五月十四日、山形県南村山郡堀田村金瓶(現山形県上山市金瓶)に、守谷伝右衛門熊次郎といくとの間の三男として茂吉が生まれた。後に遠戚にあたる斎藤紀一の養子となり、斎藤姓となった。二〇二二(令和四)年は茂吉生誕一四〇年である。
 また、この原稿を書いている日は、ちょうど芥川龍之介の生誕一三〇年にあたる。芥川は一八九二(明治二十五)年三月一日、東京府東京市京橋区(現東京都中央区)に生まれた。
 芥川は茂吉『赤光』に感動し「僻見」などに賛辞を書いている。
 二〇二一(令和三)年、山形県上山市にある斎藤茂吉記念館では、特別展「日記と歌で辿る斎藤茂吉の素顔」とオンデマンド配信の「斎藤茂吉ものがたり その魅力、その偉大さ」で長年眠っていた茂吉の日記を公開した。そこで注目を集めたのは、芥川自殺の報を聞いた日、一九二七(昭和二)年七月二十四日の記述である。その「日記6」〔一九二六(大正十五)年十一月十二日から一九二七(昭和二)年八月一日〕は、縦一八一mm×横一〇八mm×厚さ十七mmで、二十一行書き、行幅は五~六mmである。一ページにつき一日分の日記となっている。
 そこに「改造社ノ山本社長ヨリノ電話ニテ芥川龍之介氏が毒薬自殺シ、午後八時二納棺トノコトデアツタ。」という記述がある。斎藤茂吉記念館の特別展でもオンラインツアーでもその字を見られた。これについて記念館館長の秋葉四郎は「歩道」令和三年十月号で、
  芥川自殺の知らせ受けし日の茂吉の日記文字の乱れず
と詠んでいる。
 毒薬自殺ということだが、催眠薬での自殺だったという。
  死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬をのみて寝んとす
 茂吉『赤光』初版「大正二年(七月迄)」の「悲報来」十首中の六首目。茂吉は師伊藤左千夫の死を受け入れられずにいる。
 「眠り薬」すなわち催眠薬は、十九、二十世紀に多くできた。戦時中、茂吉はこの歌についての解説で「催眠薬は後年一種の流行になり、保健上害毒を流したが、その時分には専門家が用意して持って歩く程度のものであった」(『作歌四十年』)と書いている。茂吉は島木赤彦宅で催眠薬を飲んで床に着く。師左千夫の死を受けて、幾分精神的な落ち込みないしは昂ぶりがあったことだろう。





   二〇二二(令和四)年「歩道」四月号    


   言葉のルーツ             香川 哲三


 二〇二一年も終りに近づいた頃、小さなニュースが流れた。それは、私たち日本を含むトランスユーラシア語族のルーツが、約九千年前に中国東北部の西(せい)(りょう)()流域でキビ・アワを栽培していた民であり、農耕の普及と共に数千年をかけて、東は日本から、韓国、満州、シベリア、モンゴル、西はトルコに至るユーラシア大陸に広く拡散していったというものである。言語学、考古学、遺伝学(人類学)をもって構成する国際的・学祭的な研究の成果だというし、各分野の研究結果はどれも同じ方向を向いているとも伝えていた。
 私はそのニュースにしばらく釘付けになった。理由は単純である。私達に心地よいリズム感を与えてくれる五音七音の繰り返しは、日本固有のものだろうが、他民族にも似たような、音数をベースにした詩歌があっても不思議はないだろうと長年考え続けていたからで、その回答の一端を知り得たように思ったからである。
西遼河流域から日本へは、朝鮮半島で水田稲作も加わり、約三千年前にやってきたといい、十一世紀以降のグスク時代には、九州から琉球へも広がったともある。研究者の一人は、先住者の縄文人の言葉は、アイヌ語として残っているとも述べているらしい。
 翻って、隣国の朝鮮半島では、十四世紀頃に成立したという三音・四音を基本とする定型詩「時調」が存在している。形式は日本と異なるが、音数を基本にしているところが興味深い。
 一方、中国の定型詩では、日本で定義するところの漢詩(近体詩)があり、こちらは五言(一句)又は七言(一句)で構成され、句の数により絶句とか律詩とかに分けられている。漢字一文字の「語」を単位とする漢詩は、発音の単位である音節レベル(日本語のあ、い、う・・・の類)で言えば、音数を基礎に置いた詩型とは言い難い面がある。語順も主語→動詞→目的語と続くし、音に抑揚をつけるなど、日本語とは異なった性格を持っている。因みに、中国語は我々とは異なるシナ・チベット語族に属している。
 以前から、韓国の言葉は日本語に似ていると感じていた私には、先に述べた研究結果は、素人ながらも合点がゆくものだった。各国で育まれている文化は、国土、気候、民族性、生活、統治などの諸要素が複雑に絡み合った結果のものだろう。気忙しい今の世の中にあっても、伝統詩型を盛んに作り続けている日本は、あるいは特殊な国の一つであるのかも知れない。その基盤には、万葉集があり、それを評価した子規が居て、その精神を継承発展させた歌人群像を今更ながらに思うのである。





   二〇二二(令和四)年「歩道」三月号    


   歌集出版のこれから          香川 哲三


 日本固有の定型詩である短歌や俳句では、個人の作品を集めた書籍(歌集・句集等)が盛んに出版されているが、その多くは、これらを広く紹介し得る雑誌や新聞を持った出版社が担っており、それぞれに、優れた書籍、乃至は作品を顕彰するための賞を設けている。こうしたツールを有しない社においても歌集・句集などを出版してはいるが、著者にとってどのような版元が魅力的かということになれば、前者に軍配が上がるのであろう。

 しかしながら一方では、多くの著者が、出版経費や残部などの課題を抱えているというのも現実の姿である。
 そうした問題点を軽減するために、必要な部数のみ随時印刷出版するオンデマンド方式、組版から印刷・出版などの諸工程を一元化して経費を節減する社など、今では随分と多様化しており、歌集などを出す際の選択肢が増えている。そうした動きの根底には、デジタル化技術がある。現在では、大半の出版がDTP(デスクトップパブリッシング)に置き換わっており、私達が直接目視することの出来ないデジタルにより出版作業が支えられている。最終的なアウトプットを紙に印刷するのか、ディスプレイ上に映し出すのかという段階に於て、紙の本と電子書籍との間に質的な差異が表れてくるのである。
 少し前のことではあるが、A社から、電子書籍と併せて、紙書籍の出版も日本で可能となったというメールが届いた。A社の方法(セルフ出版)によれば、出版経費は不要となり、在庫問題も無くなる上に(一冊単位で販売)、本の価格も著者が設定でき、ロイヤリティー(印税)も高い。
 三歳にも達しない幼児が、器用にスマホやタブレットを触る時代である。加えて折り畳み式のディスプレイなども実用化されつつあるから、近い将来、電子書籍も紙書籍に近いような質感を具備するのかも知れない。
 歌壇という歌人社会を多面的に支えてきた短歌関係の総合誌・新聞や出版社・印刷所の行末を思う時、或いは歌壇ジャーナリズムと共に歩んできた多くの歌人のみならず、それら個々の評価を、ジャーナリズムを通して受け止めてきた数多の短歌愛好者にとっても、無視できない変革が起きつつあるのではないかと、遅ればせながら私は感じている。
 真に優れた短歌作品、歌集を、他者の評価に委ねることなく、自身の力量によって見極める力を得る、こうした真摯な努力と姿勢が、先に述べた変革にも、柔軟に処してゆくことが出来るのではなかろうか。そのためには、愚直なまでに地道な作歌努力が欠かせないように私は思うのである。




   二〇二二(令和四)年「歩道」二月号    


   茂吉とわが父 ―若き歌人への言葉―  佐々木比佐子


  昭和二十一年一月、二十二歳のわが父片山新一郎は、斎藤茂吉に教えを請い、歌稿を疎開先の金瓶に送った。六十五歳の茂吉は、その歌稿に赤鉛筆で大小のある丸印と「よし」の評を付し、墨書のコメント「君の歌なかなか旨いところあり、眞面目に寫してゐてよい。この調子で進まれよ」を添えて、終戦後の物資の乏しいなか紙質上等の白い封筒に宛名を書き切手を貼って、盛岡に住む父のもとに送り返してくれた。それに感激した父は、即時に岩手産の苹果を茂吉に送っている。茂吉は礼状を父に書いた。このやり取りが、岩波の斎藤茂吉全集に書簡番号五七四五、五七六二として収められている。苹果の礼状に書かれた「御歌は傾向御よろしきにつきあの儘にて執拗に御進み願上候短哥はどうしても長年つゞけねばならぬものゆゑ右呉々も御覚悟のほど御願申上候」の茂吉の言葉は、若きわが父の胸に迫るものであったはずである。
 このあと間もなく茂吉は、金瓶から大石田に移る。父の歌稿に、茂吉は「小生既に老境(中略)罹災轉居の身上也、以后決して返事出来ません」と記していたのだが、諦めきれない父は再び歌稿を茂吉に送った。この時茂吉は発熱し病臥療養中であり、茂吉に代わって父の歌稿を添削してくれたのが、所用で大石田の茂吉を訪ねた佐藤佐太郎であった。父の著書『佐藤佐太郎随考』(短歌新聞礼一九九二年)「私の短歌の師・佐藤佐太郎」に、また二〇〇八年「歩道」一月号表紙三の「機縁懐想」に、詳しい記述がある。
 添削を経た父の歌稿は、三十七歳の佐太郎のコメント「御作歌確かにてよろし」が記され、板垣家子夫氏により、経緯を説明した手紙が添えられて、父の手元に届いた。偶然とはいえ、これらは茂吉の差配によるものであろう。丁度ひと月ほど前に、佐藤佐太郎の歌集『歩道』(角川書店による第五版)を読み深い感銘を受けていた父のこの時の驚きは、如何ばかりであっただろうか。翌昭和二十二年、父は佐太郎の勧めにより歩道短歌会に入会する。
 全集未収録の葉書もあるのだが、それはまた別の機会にして、ここでは書簡番号七一〇五、昭和二十四年五月二十七日付の、茂吉が東京に戻り代田の自宅から盛岡の父に宛てた葉書について述べようと思う。初期の歩道誌には、茂吉作品を扱った論考がよく見られるが、父も用語等について考察していたようで、それに応じた助言を茂吉は書いている。「發表をいそがずに、資料を充分に貯へて」は、研究の心得として、先達から後進への血の通ったあたたかな鞭撻である。




   二〇二二(令和四)年「歩道」一月号    


   祝受賞『茂吉からの手紙』     佐々木比佐子


 二〇二一年の日本歌人クラブ大賞が、秋葉四郎氏の著書『茂吉からの手紙』を中心とした永年の功績に対して授与されましたこと、心よりお祝い申し上げます。
 この『茂吉からの手紙』は二〇二〇年三月、ながらみ書房からの刊行で、同年の「歩道」十一月号の表紙三に、長田邦雄氏が「二二が四」のタイトルで本書について記しておられる。そして『茂吉からの手紙』は翌春、第十二回日本歌人クラブ大言受賞の書籍となった。あらためて本欄においても、祝意を込めて、『茂吉からの手紙』を取り上げてみたい。
 長田氏は、佐藤佐太郎への手紙について述べており、また二〇二一年の「歩道」七月号には、秋葉氏の「茂吉に門人はどう酬いているか―佐藤佐太郎の場合―」〈転載〉が見られるので、ここでは、『茂吉からの手紙』が収録する女性歌人四人に宛てた手紙から、作歌についての茂吉の助言に注目して、その中から幾つかを、次に列記してみよう。

永井ふさ子宛書簡番号八四九(11)
〇「具象的々々と御作り下さい

杉浦翠子宛書簡番号五一三(p62)
〇「専念一人の先輩に就く」
  ″  書簡番号五八八(74)
〇「手帳に一句ぐらゐづつ写生しておく」

原阿佐緒宛書簡番号七九一四(16)
〇「真に苦吟して御自分で選して」

河野多麻宛書簡番号四〇一三(166)
〇「もう少しく、しぶり御苦心の必要有之候べし」

 右に掲げたこれら茂吉の助言を目にすると、歩道会員であるならば、主宰佐藤佐太郎の短歌指導の言葉としても、温かく親しく感じられることであろう。
 そしてこれらの言葉は、佐太郎没後に歩道短歌会に入会した筆者の体験としては、入会直後お世話になった名古屋短歌会の歌会における先輩方から伺った助言としても、忘れられない。佐太郎没後三十五年となる二〇二二年において、佐太郎の弟子達による歩道短歌会に、茂吉の言葉は継承されている。
 秋葉氏の『茂吉からの手紙』は、膨大な分量の全集収載書簡から数点を選び、わかりやすい解説を付している。茂吉が個人に直接宛てた言葉ゆえ、この解説に助けられて、意味が理解できるという箇所は少なくない。ひととおり読み終えて、本書を閉じたとき、帯の背に記された文字が目に留った。その一行「若い歌人のために」は、短歌をこよなく愛する茂吉と秋葉氏の、未来に向けた切なる願いであるだろう。