歌壇の窓  【最新版】 【2003(平成15)年~2023(令和5)年一覧



   二〇二一(令和三)年「歩道」十二月号    


     鑑賞:比喩の歌          樫井 礼子

  短歌総合誌「短歌」の特集「比喩の魔力」の中の「すごい比喩の名歌集」という項目に、
  街の(そこ)泡立つごとく(とも)り来てつづまりに人は
  ()()に憩ふ  秋葉四郎(『樹氷まで』)
という一首を挙げた人がいた。この「泡立つごとく」の直喩は正確に受け止められ名歌として掲出された。夕暮れの歓楽街に点っていく灯の形状や時間的推移などを言い当ててこの独特なイメージをどんな読者にも伝えることに成功している。この鑑賞者が述べている「ビールの泡を連想してしまうのは私だけだろうか」という感想には笑ってしまうのだが、案外そういうユーモアある鑑賞をも許してしまう比喩の魅力があるのかもしれない。
  やや遠く淡青の泡たつごとしクレツチヤー氷
  河の末端にして
    佐藤佐太郎(『開冬』ユングフラウ行)
 「泡」は独特な形状と相があるから形象の印象の上で自然界人間界における比喩として有効に働く性質がある。
 また、別の人が、佐太郎先生の
  寝苦しき夜半(よは)すぐる頃ひとしきりまた衝動の
  ごとく降る雨(『帰潮』)
を挙げ「降雨はひとつの巨大な生き物のように映る」と鑑賞した。巨大な生き物とのニュアンスは違和感があるが、「衝動のごとく」に雨の意思を感じ取ったが、弱まっていた降雨が急激に勢いを増すときの空気感、「衝動のごとく」はまさに時間的な相を臨場感を以てとらえた迫真の比喩表現である。
 比喩歌を鑑賞するときに、その比喩で何を作者が感じて何を表現したかったのかを正確に読み取ることが肝要であり学びともなる。他者の歌を読む者は、独りよがりにとらえて真実を把握できなければ、一首の歌を味わうことが難しいだろう。感性的直感による詩の芯を見取ることは、鑑賞者自身が作者の認識状況をそのまま自身の直感として体感でき得ることが条件である。形のあるもの、形のない対象をも透徹して観ることが作歌の際の見方であるように、歌の鑑賞にもその見方は必要だと思っている。
 比喩歌を多く詠んだ佐太郎先生は、「本当の達した表現には比喩などを絶したところにある」としつつも「感覚が尖鋭になればなるほどそういう場合(比喩的表現)が多くなる」と言っている。秋葉先生の比喩歌の割合は結社内外で好評であった第一歌集『街樹』に最も多く、佐藤先生の『歩道』『帰潮』とほぼ同じ一割前後である。読者を魅了する世界に比喩での詠歎気質が存在感をもたらしているとも言えよう。私たちも、安易な思いつきや単なる言い換えを抑えつつ比喩歌に向かいたい。





   二〇二一(令和三)年「歩道」十一月号    


     「目前心後」           樫井 礼子

 歴史作家の加来耕三氏が、羽生結弦選手の独特な世界を「目前心後」で自分の表現をとらえているのではないかと、四月の毎日新聞にて述べていた。
 自分の精神世界を百パーセント理解してくれる人はいない。表現している自分自身の裏側は見えないが、羽生選手の域は極意のところまできているとも言う。その方法として世阿弥の言う「目前心後」を挙げている。
 舞に、目前心(もくぜんしん)()と云ふことあり。
  「()を前に見て、心を(うしろ)に置け」となり。(中略)見所(けんしよ)より見る所の(ふう)姿()は、わが()(けん)なり。しかれば、わが(まなこ)の見る所は()(けん)なり。()(けん)(けん)にはあらず。離見の見にて見る所は、すなは見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得(けんとく)するなり。(『花鏡』()(しやう)()(こん)
 見所(観客席)から見る自分の姿を常に意識せよ、我見ではなく離見で見た時に初めて本当の自分の姿を完全に見極めることができる、というのが要点である。「離見の見」は自らを客観的に見よとの意味でよく使われる言葉である。ここではそれを「目前心後」という視点で具体的に示している。自分の見たままでなく、見所同心、客席からの見方を考えてやらなければいけない、自分だけで盛り上がってもだめということである。
 これを短歌に置き換えてみたい。まず、形あるものを見て、一つの状態、一つの感じを五感でとらえモチーフとしたときに(目前)、その味わいと感動の確かな本体を把握することは、そのときの周囲の空気、匂い、音、肌に感ずる感触や、自分の内に湧き上がる感情をじっくりと正確に見取ることが必要になる。多少語弊は残るが、これを「心後」ととらえてもいいのではないか。『純粋短歌』で述べられている「形あるものを執拗に観ることによつて、形のない対象をも見る事が出来る」「真実といふものは顕れてゐるものだが而も観難いものである」という域であろうか。作歌真でいう「輝と響をとらへ、酸鹹の外の味ひを求めて、思ひを積み、」の部分になる。
 もう一つの短歌における「心後」は、一つの形になった歌をいかに高めた水準に持っていくか、推敲と指導者から受ける歌評の段階とした。先の引用の後に次の一文がある。
 後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまへず。
 自己の後姿が感じ取られなければ、たとえ姿に洗練を欠く点があっても、よくわからないということである。一人合点の原作を自ら推敲したり、指導者の教えや歌友の批評を得て比較考究するのが、洗練された歌を作るための「心後」の過程として重要となる。






   二〇二一(令和三)年「歩道」十月号    


     天象を詠う(二)         大塚 秀行


 前回、月蝕や日蝕を矚目とした歌について、「歩道」にこれまで掲載された作品を通して、作歌する上で留意したい点について次のように述べた。
 月蝕に作者自身の影を添わせたり、日蝕から生まれる現象の中の自然の摂理に目を向けて表現する等の工夫が、歌に奥行きを与え説得力を持たせる。このような工夫が、他の誰でもない作者自身の歌として存在感を生み、歌をかがやかせるである。
 このような視点で、今年の皆既月蝕を詠んだ「歩道」の掲載歌を鑑賞したいと思っていた。ところが、今回の皆既月蝕は、日本の各地で見られたようだが、私の住んでいる関東地方では見られない地域が多かったのである。一時は残念だと思うも、ここで思い出したのが、佐藤佐太郎のハレー彗星を詠んだ次の二首である。
  むらさきの彗星光る空ありと知りて帰るもゆ
  たかならずや
  彗星の遠き光のとどきゐし七十年前の家いか
  ならん         (『黄月』より)
 昭和六十年の秋から翌年の春にかけて、七十六年周期で地球に接近するハレー彗星が見られた。その時の歌である。月蝕や日蝕とは異なるが、天象を詠む上で、多くの示唆が与えられる。佐太郎は、このハレー彗星を実際に目の当たりにしてはいない。しかし、佐太郎はハレー彗星に自らの境涯を見事に添わせることにより、歌を鮮やかにかがやかせているのである。
 「むらさきの」の一首は、実際には見えない彗星だが、彗星が光る空があることを想起するだけで心が豊かになると詠嘆している。「彗星」に対する深い思いが察せられ、このように作者に引き付けることにより、歌は強い響きをもって詠む者に迫ってくる。
 「彗星の」の一首は、郷里の宮城県大河原町を思い起こして作られたのだろう。前回、ハレー彗星が地球に接近した七十(数)年前、佐太郎はまだ生まれた頃であった。彗星と故郷の家を結びつけることにより、それぞれが重く響き合い、境涯がしみじみと感じられる一首となっている
 また、佐太郎の「作歌真後語」の次の語も天象を詠む上で大変参考になり、心に留めておきたい。
 ○歌は意図ある如く、意図なき如くにして成る。而して作者の影あるを要す。
 〇言葉に境涯の影あり。影に境涯の声ある如くせよ。歌は単純にして貫徹を要す。
 今回の皆既月蝕は、見られた地域とそうではない地域があるが、それぞれどのように詠まれたか楽しみである。






   二〇二一(令和三)年「歩道」九月号    


     天象を詠う(一)         大塚 秀行


 今年の五月二十六日、皆既月蝕が日本各地で見られた。特殊な現象であり、一期一会を大切にする歌人にとって、是非とも作歌したい嘱目である。
 この皆既月蝕だが、今から三年前の平成三十年五月二十一日にも日本各地で見られた。当時の「歩道」には、次のような歌が載っている。
            波 克彦
  皆既月蝕となりしスーパーブルームーン暗赤色に不気味に浮かぶ
            大野 敏夫
  月蝕を仰ぎ見をればゆくりなく残雪松の枝よりこぼる
            福田智恵子
  大六角の星座さやかに赤黒く輪郭のこし月は欠けたり
            村上 時子
  澄み渡る夜空に出でしスーパームーン見つつ故なく境涯思ふ
            日下部扶美子
  帰り遅き夫を待てば皆既蝕終へたる月のおぼろにあかし
 今年の皆既月蝕と同様に「スーパームーン」だったことが分かるが、着目したいのは、それぞれの歌には自分に引きつける工夫が見られるということである。「不気味に浮かぶ」という捉え方、「残雪松の枝よりこぼる」という視点、「大六角の星座さやかに」という凝視、「故なく境涯思ふ」という感慨、「帰り遅き夫を待てば」という日常生活の提示。「皆既月蝕」という現象に作者が自らの影を添わせることにより、歌に奥行きが生まれ、味わい深い作品となっているのである。
 さて、月蝕と同じような天象に日蝕がある。平成二十四年五月二十一日に全国各地で金環日蝕が見られ、「歩道」にも次のような歌が掲載された。
            佐保田芳訓
  蝕終へて光もどりし多摩川の鳥しげく鳴く朝のすがしさ
            松生富喜子
  金環蝕進みて暗むわが庭のかすけき風に紫蘭の花揺る
            黒田 淑子
  午前九時金環日蝕終りたりかたばみの花ふたたび開く
            神田あき子
  日蝕の解けゆくころか空低く声鳴交はし鴉飛ぶなり
            樫井 礼子
  日蝕の進みてくればわが畑の葱苗の影透るごと立つ
 日蝕という現象から、光が閉ざされ或いは蘇れば大気が動き、様々な自然現象が生まれるだろう。歌に詠まれた鳥、紫蘭、かたばみ、鴉、葱苗と日蝕下に見える姿、聞こえる声は、それぞれ自然の摂理とも言うべきものであり説得力をもっ。   (次回に続く)





   二〇二一(令和三)年「歩道」八月号    


     佐太郎短歌の変遷について     中村 達


  今西幹一著『佐藤佐太郎の研究』は、佐太郎論の定本とされている。その中の次の言葉に、拘りを持ってきた。それは「処女歌集『歩道』において佐太郎の短歌の基調はほぼ形成されている。以降において佐太郎の抒情に変容はあっても変質はない」である。特に、「変容はあっても変質はない」と言う言葉に拘って来たのである。
 広辞苑によれば、変容は「姿・形を変えること。姿・形が変ること」とあり、変質は「性質または物質が変化すること。また、その変じた性質や物質」とある。
 比べて見ると、変容は外観に重きがあり、変質は内面に重きがあるように思う。佐太郎に対する今西氏の見解は、そのまま受け入れて良いのか、あれこれ考えていたが、結論が出ないままでいた。何故ならば、佐太郎短歌に於いて、本当に変質はなかったのか、と言うことである。私の考えでは、佐太郎短歌はある時期を境に、変質しているのではないかとの思いが、以前からあった。佐太郎が還暦の時に上梓した第九歌集『形影』と次の歌集『開冬』の間には、言い知れぬ落差を感じて来たからである。音楽で言えば、長調から単調への変調に似た感じを持つたからである。『形影』の後記に於いて現わされた『作歌真』に続いて、「何時までも変化がないとしたら、それは流動進展がないのだからよろこぶべきことではあるまい」とも書いている。この言葉が、私の中で澱のように残っている。また、この歌集の『五紀巡遊』の連作が、キーポイントになっているとも思われる。
 こんな思いでいる時、偶然手にした『佐藤佐太郎論』(片山新一郎著)の中に、次の文章を見つけて驚いた。そこには「昭和五十一年四月三十日、発行所を訪問したとき、作者が、―『地表』『群丘』の頂点は『冬木』『形影』で、『開冬』は、また別だからな。―と座談にいわれたことは、いまだ記憶に新しい。この作者の言葉は、どういうことを指すのであろうか。」との文章である。改めて『形影』から『開冬』への推移を変質の面から、検討しなければならないと思った。因みに、片山氏は、『形影』『開冬』の作品及び後記を読みこんで、結論を得ようとしていた。その内容を要約すると、次の様になるだろう。
 茂吉の「芸術に極致はない」を受容しつつ、「ひびき」の重要性を勘案し、蘇東坡の「語、煙霞を帯ぶる古より少し」を「作歌真」と関係付けて新たな進展を希求しようとした。そして、その成果が『開冬』であるとする。
 その意味で私は『形影』は佐太郎短歌の一つの頂点をなす歌集であると思う。





   二〇二一(令和三)年「歩道」七月号    


     作歌の本質            中村 達


 岡井隆が亡くなったのは、二〇二〇年七月一〇日であった。永田和宏氏が「現代歌人協会会報一六四」に弔辞を書いている。短文ではあるが、重要な指摘をしているので、ここに紹介してみたい。
 『(前略)塚本邦雄、寺山修司らとともに前衛短歌の旗手としての活躍は改めて言うまでもなく、また言い尽くせるものでもない。これだけは覚えておいて欲しい岡井語録を。「短歌は究極のところ『うた』であり、『しらべ』である」(『朝狩』自序)。
 「短歌における〈私性〉というのは、作品の背景に一人の人の―そう、ただ一人だけの顔が見えるということです」(「現代短歌演習」)。後半部分の岡井語録が重要である。
 この短い岡井語録を読んで、会員の誰もが気付いたであろう。それは佐太郎の歌論の主張に似ていることである。
 佐太郎短歌の作歌論は、写生である。その要約は、「作歌論」として、会員に示されている。その後、「作歌真後語」として、詳しく列挙した歌論がある。内容は、やや抽象的であり難しい。先に示した永田氏の岡井語録と、共に考えてみたい。
 第一の主張である『うた』は『ひびき』であると言う認識に対して、佐太郎の認識は、「言葉にひびきあるは作歌の第一条件なり」「(前略)言葉のひびきに更に遠韻が添わなければならない」と、ほぼ同じことを言っている。しかも、佐太郎の方が、一歩踏み込んだ見解を示している。
 第二の岡井語録は、『作品の背後に一人だけの顔が見えるということ』に対して、佐太郎は、「(前略)而して作者の影あるを要す」「言葉に境涯の影あり、影に境涯の声ある如くせよ。(後略)」と論じている。両者とも短歌に対する認識は同じである。
  蒼穹(あをぞら)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶    岡井 隆
  宿雪の解けゆく空をしばしばもよろこびしかどいまは老人    佐藤佐太郎
 この二人の作品を並べて見た。ここでは良し悪しを言うのではなく、特徴を比較する。
 岡井隆と佐藤佐太郎の短歌は、総論の所では同じであっても、各論(作歌)の所では、大きく違っている。岡井隆は、意味内容に重点を置き、比喩や豊富な語彙を駆使し、技巧の限りを尽くしている。
 佐藤佐太郎の短歌は、意味内容を重視しつつも、表現が端的であり、語感を重視し、一首のひびきを最大に生かすことに、心血を注いでいる。いま、写生歌の評価が厳しい。佐藤佐太郎の求めた歌に活路を見出したい。





   二〇二一(令和三)年「歩道」六月号    


     震災後十年(後)         高橋 良


  前回は大友圓吉の旅行詠に佐太郎の影響が見られることを指摘した。
 『歌壇』二〇二一年四月号で山中律雄は、宮城県で東日本大震災を経験した大友の『冬天』「震災禍」三十九首中の二首を挙げている。「抑制の効いた表現から悲しみが滲み出ている」と評している。
  地震にて崩れし瓦突き刺さる庭土分けてクロツカス咲く
  もしやして姉混じれるか安置所の泥づく布を分けつつ探す
  些かの躊躇ひあれど姉といふ亡骸受けて荼毘に付したり
  退く波に呑まれて沖へ行きにしか義兄の生死はいまだ知れざる
  ことごとく津波持ち去り祭壇の義兄の骨壺入るるものなし「震災禍」
 大友は実姉・義兄と別れることとなった。震災後の日常詠には被災していればこそ共感できるようなものもある。はたまた、被災の程度が重いがゆえの実情を突きつけられる歌もある。津波による家族・親族との別れという事実の悲槍さ、厳粛さは歌には収まり切らない。
 また、「遡上」二十首も震災関連の歌だ。
  かつてわが住みたる町は原発の十キロ圏にて人住めぬとぞ
  原発に賛否分かれて争ひし町は廃墟と化して久しも
  知り人は皆散りぢりに避難して居所の知れるはいくたりもなし
  避難先記す便りはふるさとを追はれし友の苦渋の滲む
  遡上する鮭は尾鰭に水を切り体打ち合ひ簗に群れ来し   「遡上」
 福島県浪江町で一人暮らしをしたことのある大友は、浪江町の人々との交流が震災後もあり、避難先にいる友人の近況を知り得た。浪江町を流れる請戸川に遡上する鮭を思い起こす大友は、いつか浪江町に戻って来られるようになる日の町民を思っているかのようだ。
 歌集終盤の「冬天」一連は、歌集タイトルでもあるが、
  残りゐし石榴もいつか落ち尽しわが行く丘は冬天ひかる
 から取られている。秋葉四郎が「佐太郎調」と評する歌の一つだ(『現代短歌』二〇二〇年一月号)。ここでは落ち尽した石榴の実を詠み、老境にあって残された生に光を見いだそうとしている姿が読み取れる。
 師との出会い、長い作歌人生、二度のブランク、震災。様々な要素が合わさり、作り上げられた作歌の方法・態度。昭和・平成という時代をまとめたスケールの大きな第一歌集。東日本大震災後十年の今こそ読むべき歌集だ。





   二〇二一(令和三)年「歩道」五月号    


     震災後十年(前)         高橋 良


 東日本大震災後十年にあたり、読むべき歌集がある。昭和十年青森県生まれ、宮城県在住の大友圓吉の歌集『冬天』である。大友が現在住む宮城県多賀城市は震災で津波の被害を受けた。また、彼は原発に近い福島県浪江町で暮らしていたこともある。
 歌集には、戦時を回顧する歌も含まれ、ある東北人の昭和・平成が垣間見られる。「昭和の歌」と「平成の歌」の二章に分かれているが、具体的な作歌年代は記されていない。
 大友は佐藤佐太郎主宰時代からの歩道会員である。大友は郵政局員時代、郵政部内誌「郵政」を手に取るようになる。その部内誌の短歌欄選者が佐太郎であった。そこでの投稿・入選が縁で、歩道へ入会。それが昭和三十五年というから、足掛け六十年歌を詠んでいる。その間退会等により二度のブランクがある。
  師の詠みしもみ皮の如き海の面わが機の影をおきて広がる 
                      「伊勢路」
  とどこはる霧にかあらん摩周湖の水面は淡くにごりて見ゆる
  水に置く原生林の影重し雄阿寒岳に続く林ぞ
                      「萱草の花」
  那智の滝しのつく雨に見えざれば青岸渡寺を去り難くゐる
  朱の塔に上り巡ればゆくりなく霧薄れ来て那智の滝見ゆ
                      「青岸渡寺」
いずれも「平成の歌」である。昭和に佐太郎は同じ場所、情景を詠んでいる。大友は佐太郎の旅を辿っていったのだ。
  揉皮のごとき海表みえをりて黒き光の安からなくに
          『冬木』「Ⅸ 地上」(昭和三八)
  へだたりをもちて聳ゆる山ふたつ雄阿寒のやま雌阿寒の山
  摩周湖は山のそこひに広々と水をたたへて一日くもりつ
          『立房』「摩周湖」「昭和二一」
  冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
  妙法の山のつづきにしばしばも遠く小さき那智の滝みゆ
          『形影』「那智」(昭和四三)
 大友は「師の詠みし」海と同じく、上空から見た光景を詠んでいる。引用の形での本歌取りとなっている。大友は伊勢志摩の海を詠み、佐太郎は豊後水道あたりを詠んでいるという違いはある。一方、北海道の阿寒摩周、和歌山の那智については、大友が佐太郎の旅先を訪れている。後者においては、師の詠んだ「那智の滝見ゆ」という結句を求めて歩いたことが読み取れる。
 大友の旅の詠には佐太郎の影響が色濃く見られる。






   二〇二一(令和三)年「歩道」四月号    


     ロゴスとフィシス(二)      香川哲三


 純粋短歌論(佐藤佐太郎)冒頭の「内容」に「詩は、その感動、情緒に意味を感じてゐなければならない・・・感情に意味を感ずるといふことは、感情を対象としてそれに主観が働くこと、或は対象が主観に働くこと・・・昇華、転生のない感情がそのまま言葉に移行する時、それは単に素朴な抒情に過ぎない」とある。私はこの一節を幾度となく思い起こしながら作歌を続けてきたのであるが、実作にどれほど反影し得たかということになれば覚束ない。
 先に「捻くり捏ねくり」「こしらえ物」について述べたが、もう一つ言っておかなければならないことがある。
 翻って、詩の源である「感動、情緒」は、世に生きる人々に等しく遍在する。しかしながら、「感情、情緒」の奈辺に意味・価値を見出すかということ、諸々の事象が人それぞれの「感動、情緒」にどう作用するかということになれば、これは人により境遇により千差万別ということになる。即ち、作歌対象も、表そうとする感情・情緒も人それぞれで、それが短歌作品の個性や多様性に結びついているということになるだろう。
 さて、作品を読了すると、調べも良いし、意味もよく理解でき、表現も順当で、一見自然流露の作品であるように思われるにも拘わらず、心に響くものが無い、そうした作品が多いというのも現歌壇の実際である。謂わば、ただごと歌の類である。
 このような課題を乗り越えるには、「感情の昇華、転生」が必要だということになるのだが、それが実際は中々に難しい。ロゴスとフィシスの関係性で言えば、対象のあるがままの姿の中に潜在している真実を、ロゴスの力を借りて「詩」に練り上げてゆく過程が難しいのである。
 こうした困難、或いは実作上の隘路は、作歌初期の人よりもむしろ、作歌経験の豊富な人に潜む傾向があるのではなかろうか。それに気づいているベテラン歌人は、素直に自作を省みて地道な努力を重ねているだろう。だが、現歌壇の実際は、さほど楽観できる状況ではない。
 「感動、情緒」は必ず実態に応じて動く。「私」の感動・情緒を動かしている実態(フィシス)を通して、詩に相応しい言葉の世界(ロゴス)を成してゆくには、実態に近づく努力(観る事)と、実態をどう表現するかという言葉の錬磨(推敲)に結局は行き着くのである。「短歌を甘く見てはいけない」、「人間最後まで努力することが大切だ」、こうした先進の言葉に謙虚に耳を傾けながら、感情の昇華、転生に向かって地道に歩んでゆくほかに、「詩」に到達する術はないように思われる。






   二〇二一(令和三)年「歩道」三月号    


     ロゴスとフィシス(一)      香川哲三


 
先般、テレビで語られていたロゴスとフィシスの関係性を興味深く聞いた。端的に言えば、言葉或いは論理など、人の頭脳から生み出される世界と、あるがままの姿の関係性について語られていたのであった。
 その頃私は機会あって短歌関係の雑誌や新聞などに発表された作品や論にざっと目を通し、複雑な思いを抱いていたのである。こうした経験は今に始まったことではないが、改めて作品の質や論の深さに、「確かにそうだ」と思わせて止まない何かが不足している、或いは欠けていると思わざるを得なかった。本欄「歌壇の窓」でも既に言及されている事ではあるが、コロナ禍に関する作品でも、同じように複雑な印象を持たざるを得なかった。
 作歌は、各人がそれぞれの価値観をもって成されるものだから、どのような作品であるにしろ、私は否定はしない。だが、それを評価するかどうかということになれば別のことである。
 ロゴスとフィシス、作歌はその対立軸上になされるものではなく、ロゴスを通して、フィシスに限りなく近づこうとしている営為ではないか、そう思うのである。

 私たちが日々目にしている様々な事象も景色も、或いは私達の心に絶えず明滅し続けている感情も、先ずは、あるがままの姿として受け入れる、そこに作歌の原点があるだろう。それをロゴスにより捉えようとしているのが、私達の目指す写生短歌、純粋短歌の姿ではなかろうか。
 こうした価値観に立つ一人として、作品や論に対する私の評価も、自ずから規定されてくるのだろう。
 回りくどいことを言ってしまったが、ロゴスに偏った作歌技法とも言うべきか、現在の歌人の、取分けこれからの活躍が嘱望されている若い人たちに、そうした傾向が強いと感じられた。一首のどこかに、凝った表現、有り体に言えば、嘗て先進が「捻くり捏ねくり」「こしらえ物」などといった技法が見られ、自然流露の趣とは随分と異なる方向に力が注がれているように思われる。中には、フィシスを感じ得る作品もあって、救われるような気持になったが、決して多くはなかった。
 人が織りなす社会は、どのようなものであるにしろ、ある種の傾向を持って動いており、歌壇なども例外では無い。だが、そこには自ずから均衡というベクトルも求められているだろう。あるがままの自己を、そして自然を正しく深く捉え、ロゴスの力を借りて、手触り感にあふれた一首をこつこつと成してゆく、そうした努力の必要性を、私は改めて感じたのであった。





   二〇二一(令和三)年「歩道」二月号    


     『続日本紀』の記載 ―茂吉の空想― 佐々木比佐子


 斎藤茂吉は『万葉秀歌』(上巻)に、柿本朝臣人麿在石見国臨死時自傷作歌一首(巻二・二二三)の評釈を、次のように記している。


 …人麿は死に臨んで悟道めいたことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなかろうかと空想した。


 ここに述べられた「石見に疫病の流行した時」とは、『続口本紀』巻三の文武天皇、慶雲四年(七〇七)夏四月丙申(二十九日)の条にみられる次の記載である。「天下(えやみ)し飢ゑぬ。(みことのり)して振恤(しんじゆつ)を加へしむ。但し丹波、出雲、石見の三国尤も甚し。幣帛を諸社に奉るまた京畿と諸国との寺をして読経せしむ。」この振恤とは、「貧困者や被災者を援助するために、金品を施し与えること」である。「天下疫飢」という臨時の大事に際して、天皇が命じられたのであった。感染症等の疫病は、古代から人々を襲って来た。富士川游著『日本疫病史』によれば、このような時「療法」の第一に挙げられるのが、社に幣帛を奉る事と、寺に於ける読経であったという。
 茂吉の大著『柿本人麿』総論編「人麿の死及び歿處」には、『日本書紀』と『続日本紀』から古代の疫病の記録を引いており、列記されたそれらの記述からは『万葉集』の時代の厳しさが窺われる。
 時代背景から、人麿の疫病死説というのはあり得ることだが、しかしながら、本当に人麿の死が疫病に関係したものであったのかどうかは、『続日本紀』の記載からはわからない。それゆえ茂吉は、「空想」と言っている。「想像」とも言っている。それでも人麿について可能性のある事であれば、何かを言わずにはいられなかったというのが、斎藤茂吉なのだろう。「万葉を資料とする以上、それを事実と看傲さなければ、記述は進行し得ないから、人麿はそんな具合で石見で死んだこととするのである。」と、茂吉は述べている。
 『万葉集』巻二に収められる「相聞」と「挽歌」の部立ての終り頃に、人麿と石見国の関りを記した題詞と作品がそれぞれ配列されている。『万葉集』巻二の編集において、石見国という場所は、柿本人麿の終焉に結び付けられているようである。畿内にある鴨山と石川から、鴨山は石見国ではないとする意見もある。それはそうとして、『万葉集』の題詞が伝えようとする事は何であろうか。
 二〇二〇年現在、石見国の何処かであろう人麿の終焉地については、茂吉説を含め諸説あり、定まってはいない。






   二〇二一(令和三)年「歩道」一月号    


     パンデミックを越えて        佐々木比佐子


 文春新書の磯田道史著『感染症の日本史』(二〇二〇年九月刊)を手にしたところである。新型コロナウイルスによるパンデミックの対策には「総合的な知性」からの発想が必要と述べるこの書は、現在進行中のパンデミックの、その只中に日々生きる私達の立ち位置を理解し、未来に向かうための力となる善き一冊と思われる。そしてパンデミックを考察する際の、最も重要な参照例として示される百年前のスペイン風邪の事例が興味深い。
 「歩道」十一月号の当欄で、樫井礼子さんが触れていた「十二歳の少女の罹患を綴った日記」についても、第六章「患者史のすすめ―京都女学生の「感染日記」」に、わかりやすく書かれている。また、当時の政府の無策を批判した与謝野晶子の「感冒の床から」は、罹患した十一人の子の母である体験ゆえの切実かつ賢明な文章で、現代においても有意義と思う。第八章「文学者たちのスペイン風邪」では、志賀直哉、内田百閒、宮沢賢治、斎藤茂吉、永井荷風の感染にまつわる事例が述べられている。
 此処では斎藤茂吉について、歌集『つゆじも』から歌を引いて当時を辿ってみることにしよう。大正八年二九一九年)歳晩の作品から二首。
  はやり風はげしくなりし長崎の()(さむ)をわが子
  ()に行かしめず
  寒き雨まれまれに降りはやりかぜ(おとろ)へぬ長崎
  の年暮れむとす
 明けて大正九年(一九二〇年)、一月六日の日付の一首。
  はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は(こや)りて
  (うつつ)ともなし
 長崎医専の教授として大正六年十二月に長崎に赴任した茂吉が、大正八年十一月になってやっと妻子と共に暮らし始めた矢先、インフルエンザのパンデミックが長崎を襲う。茂吉一家も年明けに全員罹患してしまったという。
この一首に続いて「二月某日 臥床。私立孤児院は我家の向隣なり」の詞書を記した歌がならぶ。
  朝な朝な(しやう)(しん)()よむ(をさな)()(おや)あらなくにこゑ
  楽しかり
  わが病やうやく癒えて(こころ)()む朝の経よむ(をさな)
  ()のこゑ
 茂吉はひと月ほど臥床の日々を送ったらしい。弱い存在である幼らの声が、人人の生命に力を与えるという命の世界の奥深さを考えさせられる。
 大正九年(一九二〇年)の茂吉は、この時の肺炎の後遺症を引きずりながらも、大変精力的に執筆活動に勤しむ。第二歌集『あらたま』の編集、第一歌集『赤光』の改選、写生論の確立は、この年になされた。そして翌年は欧州留学。       
 先師の生きざまは百年後の、今の私達を励ましているように思われてならない。






   二〇二〇(令和二)年「歩道」十二月号    


     コロナ禍を歌う(2)        樫井 礼子


 前回は、現在のコロナ禍を詠った作品について、体験を生かすという写生歌人としての矜持が歩道歌人の特性であると述べた。今回は、茂吉、佐太郎、併せて万葉集の作品を見てみたい。
 茂吉は百年ほど前にスペイン風邪に罹患しその際に次のように歌っている。
  はやり(かぜ)をおそれいましめてしぐれ来し(あさ)()
  の床に一人寝にけり
   (『つゆじも』大正七年)長崎歌会
  はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は(こや)りて
  (うつつ)ともなし(同九年)
 茂吉は大正九年の初夏より喀血をして翌年の春あたりまで病む身となり、スペイン風邪は自身の経験として掲歌を含め四首詠んでいるのみである。世間の喧噪は特には歌っていない。
 佐太郎はこの流行の時はまだ作歌はしていない。佐太郎の病の名歌は多いが、鼻出血以降は養生生活に入り、「純粋短歌」の方向へと内面を厳にして作歌活動を発展させていった。
  (から)き血のにほひのなかに逝く歳を守るともな
  くわれは覚めゐき       (『形影』)
 では、万葉の時代に一般的に病を歌ったものはと眺めてみたが、東歌や防人の歌には相聞や衆庶の声はあるものの病に関わる歌は見られない。飢えや病などの苦しみの作品は、社会派生活派歌人としての山上憶良の「貧窮問答歌」や、歌ではないが「(ちん)()()(あい)の文」に見ることができる。貧窮問答歌では、貧による飢えなど厳しい民衆の生活を表している。沈痾自哀の文には、「修善の志」の人生を送ってきたのにこんな重病に罹ってしまったのかと嘆いており、一貫して絶望の吐露である。県知事として民衆の生活を見聞してきた憶良でも、流行病に関する歌はない。しかし晩年の病について自らの生と命を真剣に考えていた様子がわかる。
 嗟釆(ああ)媿(はづか)しきかも、我何の罪を犯してか、この重き(やまひ)に遭へる「沈痾自哀の文」。
 自己の存在に関わる媿しさを以て諦念の境地に向かっている。概して、万葉の時代は、情報を豊かに収集することは困難であったし、特に民衆は今より己の生活自体が切実を極めていたことも、社会詠としての病事情を題材にすることがない理由と推し量っている。
 憶良にしても茂吉、佐太郎にしても、病についての作品は自身に即し、生に即して歌っている。また、現在のコロナ禍に混乱する世界を歌っていくときに参考になるのが、佐太郎の『純粋短歌』の言葉である。「詩は現象的な事件的な複雑さを追ふものではない。さういうものをどんどん捨てて、単純に無くてはならぬものだけを感動の本体とするものである」。作者の影のある歌を作りたいと思う。






   二〇二〇(令和二)年「歩道」十一月号    


     コロナ禍を歌う(1)        樫井 礼子


  令和二年の大凡は新型コロナウイルによる大禍に全世界が覆われ、それに伴い晩春頃からそれを題材にした作品が歌壇に登場した。「短歌研究」五月号と「短歌」六月号から引いてみる。
○春の街人まばらにてふくかぜの見えず音なく
 疫病(えやみ)はびこる        (田宮朋子)
○会うことのかなわぬ父母を想うとき曇り硝子
 に打ちつける雨       (中沢直人)
○セシウムを怖れしやうにウイルスに怯ゆる日
 々よ銀座しづけし      (栗本京子)
 たいていのコロナ禍の歌は新聞の見出しの様で皮相的であったり理屈の作品が多かったが、抄出した作品は感覚を生かして作者が出ている。六月号は、半数以上の歌人がコロナ禍を題材としており、世界に及ぶ歴史的状況については、これを機会にして作歌する必然性があると思える。
 日本でも五十万人が亡くなったという百年前のスペイン風邪の時代に、十二歳の少女の罹患を綴った日記が貴重なものとして残っていたが、個人的な記録が乏しい事実は寂しいものだ。芥川賞作家の小川洋子氏が「自分が生まれた証を結晶のような形で痕跡を歴史の中に残していくこと、記憶を言葉に置き換えて記録すること、それが小説である」と言っているが、それはそのまま短歌に当てはまる。文学は不急ではあるが不要ではない。コロナ禍における想いを歌人として歌うことで、いつか将来役に立ち大きな力になることもあろう。何より現身の己が救われる。それは小説より短歌のような抒情文学の方が大きな効果があると思われる。
○マスクして更に二米離れよと世にも寂しき言
 葉を聞ける          (渡辺謙)
 このようにコロナ禍であるゆえの孤独の嘆息も、歌うことによって作者を慰めることになろうか。このような寂寞の辛さを国民に味わわせないためにも為政者は更なる衛生準備や施策を怠ってはならない。罹患者や経済困窮者の悲惨な事実のみでなく、このような作品を政治家にも知って貰いたいものだ。「歩道」七月号のコロナ禍の作品は枚挙にいとまが無い。
○ウイルスに景気悪化の余波早しわが子の職に
 及びをののく        (辻田悦子)
○会ひがたき入院の夫へ今日もまた思ひのまま
 に手紙を書きぬ       (小林ミツ)
 以降の短歌総合誌にもこのテーマの作品は多かったが、改めて歩道会員の歌と見比べてみると、コロナ禍を自己の体験の声として歌に宿しているか否かが相違点として見えてきた。事実を血の通った感性で受け止め、境涯として生かせば浅薄な歌にはならない。
 百年後の日本に、現在のコロナ禍に苦しみ喘ぐ実態がデータのみでなく文学作品として残ることを期待する。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」十月号    


     見えないものを見る―佐藤佐太郎―  大塚秀行


 昨年、松山市立子規記念博物館にて実施された第三十七回子規顕彰全国短歌大会において、「秋葉四郎選」の[特選]として次の一首が選ばれた。秋葉の(評)と併せて紹介する。
  水俣に竜の落し子あまた殖え命蘇る公害の海
              今治市 阿部順子
 (評)化合物による中毒性中枢神経疾患はわれわれの記憶から消えることはない。その水俣の海が甦り、竜の落とし子が殖えているという。雄のお腹に雌が卵を産み、雄が子育てをするユニークな魚族、生きた餌しか喰わないというから海が完全に復活したのである。よいところを見、過不足なく言えて一読快い歌である。
 特選歌は、公害で汚染された水俣の海が甦ったという作者の感動が、「竜の落し子」という具体を通して生き生きと詠まれている。ここで、注目すべきは、秋葉評にある「竜の落とし子(略)生きた餌しか喰わないというから、海が完全に復活した」という指摘である。作者の眼に見えたものは「竜の落し子」だが、作者は眼には見えない「他の生き物」も見た(想像した)のだ。秋葉の慧眼によって、一首の「命蘇る公害の海」が、力強く説得力をもって鮮やかに追ってくることに気づかされる。
 さて、ここで想起されるのが、佐藤佐太郎著『茂吉秀歌』にある次の一節である。
  みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきい
  でてしまし噞喁ふ
 (略)下句も実際だが、もし用意がなければ単なる偶然で、現実を支える意味がなくなる。「みなもとは石のかげなる」湧水をたたえた池だから、冬でも鯉が泳いだりする。この上句によって意味が添うのである。
 小石川の植物園の作で、このとき私は同行して状態を見ているから、後にこの歌を読んだとき、現実を見るとはこれかと思って感銘した。湧水があるとも思われない平穏な冬の池だった。見えるものを見るのが見るというものだが、見えないものを見るのが、ほんとうの見るという働きである。
 冬池は冷たく鯉は動かないものだが、茂吉は浮き出てあぎとう鯉を見た。茂吉はその因を湧水に見たと佐太郎は述べている。湧水は一年を通して一定の温度を保って湧く。温度は見えない。しかし、「噞喁ふ鯉」という実相の背後にある「湧水」が、一首に必然を生み、鮮やかさを与えている。佐太郎は、「見えないものを見る」のが見ることの本質と感得したが、改めてこの文言の重さに思いを寄せたく思う。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」九月号    


     事実の中の真実が歌也―佐藤佐太郎―  大塚秀行


 千葉県市原市の神田宗武藤術文化ホール内の佐藤佐太郎研究資料室に、佐藤佐太郎から秋葉四郎室長に贈られた葉書や小色紙の展示コーナーかある。その中に、両面にわたつてねんごろに墨書された葉書がある。


  忽然とくさむらに落つる黄の梅をみとめし一
  年のうちの一日        佐藤佐太郎
 寫生の歌はむづかしいといふ例として此一首を示す。どのやうにして作つても平凡也。事実の中の真実が歌也。其真実は作つて見える事もあり。下句はいろいろに取れるから、まだ不十分なり。そのうち、どう取るのが一番良いか、いい方に取るのが読み方。併し、これ以上に取りやうも無いといふ境地もある。いろいろなり
              六月三十日(昭・55・6・30)


 「忽然」の一首は、黄の梅の実が突然落ちるのを見たという事実を詠んでいる。ここで重要なのは「黄の梅」にある。「黄」は「事実」だが、そこから窺えるように、梅の実が十分に熟したために落ちたというのが「真実」であり、佐太郎は自然の摂理ともいうべきものを見たのであろう。「事実の中の真実が歌也」が重く響いてくる。
 そして、この真実をまのあたりにしたのは「一年のうちの一日」であり、極めて稀有な邂逅である。この邂逅は決して偶然ではない。常に真実を見ようとする作者がいて初めて邂逅できるのであり、「寫生の歌はむづかしい」という文言が説得力をもって迫ってくる。事象を的確に詠めば、真実が見えてくるということにも納得させられる。
 下句は「不十分なり」と記されているが、一首は『星宿』の中に、「くさむらに忽然落つる黄の梅をみとめし夏至のながき一日」と推敲して所収されている。「夏至」と限定することにより、「熟した梅」と響き合って、さらに鮮やかな一首になっている。
 佐藤佐太郎はその弟子である秋葉四郎に、私信という形でこのように箴言ともいうべき助言を遺しているが、私信ゆえに深い愛情に支えられて意義深い内容となったのであろう。
 ここで、佐藤佐太郎が初めて斎藤茂吉から受けた葉書が思い出される。


 少々気が利過ぎてゐる○細かすぎる○しかし、歌つくりもいろいろの処を通過するゆゑ、気長にやり玉へ。○観方、もつと本物(ほんもの)を観玉へ(昭2・8・20)


茂吉の「本物(ほんもの)」と佐太郎の「真実」は同義であろう。佐太郎は生涯を通して茂吉の教えを実践し、茂吉と同様に弟子に短歌の根本を伝授したのである。






   二〇二〇(令和二)年「歩道」八月号    


    先入観について(後)        中村 達


 歩道短歌会は、以前は全国大会があった。佐藤先生の選評や講話を、緊張しながら聞いていたものである。
 何時の大会であったか、講話の中での佐藤先生の言葉を、今でも鮮明に記憶している。塚本邦雄著『茂吉秀歌「赤光」百首』についての言葉である。この本について先生は、少し声を荒げて『赤光』に秀歌が百首なんておかしい。五十首がいい処だ。よく頑張って選んだとしても、七十首だよ」と言った言葉である。『赤光』の歌数は、改訂版に依れば七百六十首である。先生は、取れる秀歌は五十首と言い切ったのである。茂吉の弟子である先生が、秀歌は五十首と断定したことに衝撃と共に、違和感を持って聞いていた。私は、「百首では足りない。もっと多いはずだ」との言葉を期待していた。だが違っていた。そこには先入観に囚われていた、私がいた。
 茂吉を尊敬する先生が、何故こう言ったのであろうか。私は、茂吉の存在の大きさと言う先入観に囚われていたのである。実際の歌集を良く詠んで判断しなければならないことを、先生は言いたかったのだろう。先生の言葉が今も心に響いている。
 塚本邦雄の『赤光』の歌の取り上げ方が、アララギの歌人達とは違っていた。歌集に多く歌われている「赤」に注目し、『赤光』を論じている。佐藤先生は、一首一首の歌の価値に注目し批評していた。
 塚本氏も佐藤先生の歌評を認めていたが、従来の解釈ではなく、新しい視点を見出そうとしていた。茂吉に対する従来の先入観を捨てたところに、新機軸があったのである。ある意味では、従来のアララギの見方に、新たな視点を付け加えたと言える。
 作品を解釈するとき、作者が誰であるかを知ることは意味があるが、そこに重きを置くと、先入観に囚われることにもなる。高名な作者であっても、作品が平凡であることは知られている。作者が誰かは、一度留保し、作品そのものに当らなければならないだろう。斎藤茂吉の歌、佐藤佐太郎の歌であっても、従来の解釈に囚われず、先入観を捨てて、作品に向わなければならない。佐藤先生が、『赤光』の秀歌は五十首と言い切った意味は、茂吉の歌を熟読しての自信であっただろう。先生の言葉を思うとき、改めて先入観を捨てる意味を理解した。
 いま他の結社の歌人が、佐藤先生を再評価している。そこには先入観を持たずに、作品そのものを評価している。佐藤先生の歌集を詠むとき、先入観を捨てて、自身の言葉で批評しなければならないだろう。




   二〇二〇(令和二)年「歩道」七月号    


    先入観について(前)        中村 達


  短歌を始めて、すぐ万葉調という言葉を知った。先入観という観点から、万葉調について、私の見方を示して見たい。令和の元号が、万葉集に依っていることは周知のことである。万葉集は、質実、素朴で心に直截な表現であると思っていた。所謂、万葉調といわれているものである。だが万葉集は、端的に言って、天皇を中心にした貴族の歌集である。令和の年号の由来も、貴族の宴の時の前文に基づいている。
 万葉調がどのように生まれたか分からないが、「アララギ」から来ているのは、確かだろう。島木赤彦、斎藤茂吉に拠ることが大きい様に思う。結社の会員への啓蒙に使われたのだろうが、本当に的確なのだろうか。
 万葉集は、約一三〇年間の作品が二〇巻に纏められている。大伴家持が編纂したとされる。先入観を持って解釈された歌がある。
  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君
  が袖振る             額田王
  紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわ
  れ恋ひめやも          天武天皇
 この二首は、恋愛の歌と解釈されて来た。私もその様に理解していた。現在では、宴席での戯れの歌とされている。部立が雑歌であることと、額田王の年齢が四〇に近いことに依る。因みに、戦前の教科書は、この歌を載せていなかった。不道徳が理由らしい。また万葉集が、軍部に利用されたことも忘れてはならない。だからと言って、万葉集の価値が下がる訳ではないことは当然である。
 また巻一六の様な、特異な巻がある。先入観を持たずに、次の歌を見て欲しい。ここには万葉調とは、異質なものがある。
  吾妹子が(ひたひ)に生ふる双六の(ことひの)(うし)の鞍の上
  の(かさ)
            大舎人安倍朝臣子祖父
  わが背子が犢鼻(たふさぎ)にする円石(つぶれし)の吉野の山に氷魚(ひを)
  そさがれる
 「心の著く所無き歌二首」と題詞にある。舎人親王(日本書紀を編纂したと言われている)が命じて、意味をなさない歌を作らせた。それに応えた歌である。宴席に於いて、既にこの様な言葉遊びがあったことに驚く。漢字を使って、万葉仮名を考え出した人々の努力と工夫がそこにはあっただろう。
 万葉集の味わいは、奥が深く多方面に渡っている。訓読が今の読みで良いのか、中国文化の影響、発音の問題等々研究すべき事が多い。万葉調と単純に言ってしまって良いのだろうか。あまりに現代の短歌感に引き付け過ぎていないだろうか。万葉集を一括りに万葉調とするには抵抗がある。先入観を持たず、一首一首を味わうべきだろう。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」六月号    


    文学の地山形(後)         高橋 良


 今年は塚本邦雄の生誕百年である。「短歌」四月号で特集が組まれた。
 塚本邦雄は褒めちぎりはしない。例えば昨年講談社文芸文庫となった『茂吉秀歌「赤光」百首』を開けばわかるように、一首ずつ味わいながら評価を下してゆく過程には否定も混じる。短歌への愛からあふれ出した、しかも一筋縄ではゆかない解釈だからこそ、読者に茂吉の歌の魅力を手渡せるのだろう。(尾崎まゆみ「手渡されたもの」)
 「はるばるも来つれこころは杉の樹の(あけ)の油に寄りてなげかふ」(「木こり 羽前国高湯村」)の已然形切れ「来つれ」について塚本はこのような批評を加えている。
 便利な用法だが、私は『赤光』に於てさへ、ひよつとすると一種の惰性ではあるまいかと疑ふこともある。(『茂吉秀歌「赤光」百首』)これに続けて、この歌の解釈としてこう記す。彼はむしろ、輝く雪の中で、斧を振上げてゐる方がより似つかはしい自然児、野人であつたのかも知れず、その要素傾向は一生つきまとふ。「はるばるも来つれ=なげかふ」それも、彼にとつて決して感傷ではなかつた。思へば、この杉は彼の分身でもあつたらう。 同
 塚本は杉の木に茂吉を見出だしているが、佐太郎も杉の木にかつての茂吉の姿を見出だしている。
  まぢかくの杉の老木に蟬なくや師がをさなく
  て遊びける庭 
『歩道』「金瓶」(昭和十)
 二十代の佐太郎は山口茂吉とともに師の故郷を旅した。茂吉の里金瓶は、現在上山市の北部にある。
 金瓶(かながめ)の川わたるとき花さける合歓の一木のこ
  ころがなしも            同
 「かながめ」と濁っているが、茂吉の随筆「念珠集」でも「かなかめ」とルビが振ってあるし、一般的な読み方でも濁らない。この地区は茂吉の生まれた当時(明治十五年)、南村山郡金瓶村であった。南村山郡は、現在の山形市の一部と上山市の大部分に当たる。ちなみに現在の山形市の一部や天童市は旧東村山郡に当たる。そのため、佐藤佐太郎『互評自註歌集 歩道』で金瓶が「東村山郡」とされているが、正しくは南村山郡である。
 茂吉の蔵王山頂歌碑(陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中にたつ)は昭和九年に立てられた。茂吉自身は昭和十四年に歌碑行をしたので、佐太郎は茂吉より早く見に行ったということだ。『互評自註歌集 歩道』で歌碑は「駒ヶ岳」にあるとされているが、正しくは熊野岳である。これが蔵王連峰の最高峰(標高一八四一メートル)。そこに立つ茂吉歌碑は麓の金瓶に向けられている。




   二〇二〇(令和二)年「歩道」五月号    


    文学の地山形(前)         高橋 良


 本年二月二十日、芳賀徹氏が亡くなった。享年八十八歳。山形生まれの比較文学者で、東大名誉教授であった。
 秋葉四郎先生は、斎藤茂吉記念館館長として、たびたび芳賀氏の茂吉評価について触れてきた。芳賀氏は茂吉を「二十世紀日本最大の詩人」と評した。
 比較文学とは、世界中の文学に目を向けて文学を研究する学問だ。芳賀氏は雨の詩ということで、蘇東坡の七言絶句を挙げている。


  ()(ざん)は烟雨 浙江は潮
  未だ到らざれば千般恨み消せず
  到り得帰り来つて別事無し
  廬山は烟雨 浙江は潮


 芳賀氏はこの漢詩を以下のように解釈した。

 真意は、悟る前は一生懸命その境地を求め、やっと悟りの境地に至ったが、また日常に戻ると何も変わっていない。ただその精神の内容は変わっていると言う意味です。(『水の文化』十七号「日常に非日常を生み出す雨の緊張感 表現される雨」)

 佐太郎にも廬山を詠み込んだ歌がある。
 『天眼』「銚子詠草」(昭和五〇)の一連にあり、「〔四月〕二十五日、雨」という詞書が付く。

  廬山にて酒許されし淵明の場合をおもひ酒のみゐたり

 謡曲「三笑」にもなっている故事「()(けい)三笑」が素材であろう。東晋(五世紀)の詩人陶淵明(とうえんめい)は友と、廬山に隠棲していた()(おん)禅師のもとを訪ねた。三人は滝や菊の花を見て酒を飲み、輿に乗り舞う。禅師は、虎渓の橋を越えないとの誓いを立てていたが、二人を送りながら橋を渡ってしまった。誓いが破れてしまったことに気づき、三人は大笑いした。
 廬山は慧遠禅師が(びゃく)(れん)社を結成した仏教の霊山である。江西省北部にある山で、標高一五四三メートルだ。
 山形市にも仏教の霊山があった。標高一三六二メートルの(りゅう)(ざん)である。蔵王連峰の一山であり、平安時代に開山した。芭蕉が訪れた、同市の山寺((りっ)(しゃく)())の開山と同時期である。瀧山には西行法師が訪れたとされる。鎌倉時代の封山まで繁栄した。
 佐太郎は蘇東坡の一句のように「未だ到らざれば千般恨み消せず」という気持ちだったろうか。今から八十五年前、昭和十年に二十代の佐太郎は蔵王の茂吉歌碑を目指した。




   二〇二〇(令和二)年「歩道」四月号    


    記録(二)             香川哲三


 掛替えの無い一人一人の記録、それを人は何らかの形によって後世に伝えようとする。本来、私秘的な記録である筈の日記ですら、場合によっては公開の対象ともなり得るのである。ホモサピエンス繁栄の礎ともなってきた記録の保存、公開・活用は、遠くの代よりさまざまに試みられて実用化が進んできた。言葉の世界にあって、長らく首座を占め続けているのが印刷、即ち紙の本である。
 一方、近年は電子媒体による記録保存技術が急進しており、既に多くの分野で紙の本との共存が進んでいる。両者の違い、取分け読み手にとっての長所、短所もさまざまに研究されており、興味深いものである。紙の本が優れているのは、その様式性にあると言って良い。例えば頁を捲る時の手触り感や、一巻として纏められた本のどの位置に今読者が居るのかといった、一巻を俯瞰しながら読み進んでゆく感覚は、今の電子書籍からは得難い長所である。では電子書籍は全てに於て紙の本に及ばないのかと言えばそうではない。膨大なボリュームの書籍であっても保存場所に困ることは無いし、文字単位の検索も自在である。又、出版経費や在庫の悩みから完全解放されるのも魅力だし、誤植なども容易に修正でき、文字の拡大縮小も自由である。今や、第六世代移動通信システム(6G)に向けた開発が進められている時代である。何れは立体画像の転送も可能となるだろう。三次元プリンターは既に実用化されており、芸術分野でも絵画や彫刻などの保存・鑑賞に革命的な変化を呼び込み始めている。
 技術革新は、長所ばかりでは無く短所や新しい課題を伴うものだから、私たちは冷静にそれらを見極めなければならない。さて歌界では、今後どのような展開が待っているのだろうか。それらを考える一つのヒントに、当面は、短歌関係著書の性格区分が必要なように思われる。検索が大切な役割を果たす書、一首一首の前に佇立して作品を味わってゆくべき歌集、或いは章を短く立てて構成する本などでは、先に述べた紙の本特有の長所を、電子書籍の長所が凌ぐのではないかと私は考え始めている。電子書籍と紙の本、各々の性格を活かしながらの共存がしばらくは続くだろう。そして電子書籍は、現在の出版業界、歌集・歌書の在り方、本の価格設定、更には歌壇や各賞の授与、短歌専門誌の未来にも決定的な影響を及ぼすのではないか、そんなことを思うのである。私は、自身の諸事情により電子書籍出版に踏み込んでしまったが、今は歌集も含めて、しばらくは電子書籍の可能性と限界を、自著を通して見極めてゆきたいと考えている。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」三月号    


    記録(一)             香川哲三



 人それぞれの境涯は、生誕から死へと向かってゆく儚い時空の中に明滅している。いつの日かは跡形もなく消え去ってゆくだろうそうしたわが生の足跡を、古来より人は、形あるものに刻印して時空の壁を越えようとしてきた。生への愛惜、それがおおよその芸術を成り立たしめている機軸ではないかと思われる。文学、そして短歌もこうした儚いものへのいとおしみに彩られ、また支えられてもいる。
 翻って、万葉の時代から続く長い短歌
(和歌)史の中に、確たる足跡を刻んだ斎藤茂吉の魅力は、究極のところ、成された短歌の比類なき響きにあるというのは佐藤佐太郎が夙に述べていることである。そうした茂吉の行動、息吹を、幾たりかの門人が克明に記録しており、私たちは今に生き身の茂吉を、先達の綴った言葉を通して親しく感じ取ることができる。随行記としては主なものに、佐藤佐太郎の二冊の著書『童馬山房随聞』、『斎藤茂吉言行』、大石田時代の茂吉の日々を活き活きと綴った板垣家子夫の『斎藤茂吉随行記』上下巻、昭和十六年より晩年に至るまで、茂吉との問答や自作の添削などを書き残した田中隆尚の『茂吉随聞』上下巻があって、何れも大冊である。随行記ではないが、玉井崇夫を中心とした翻刻『山口茂吉日記』も、斎藤茂吉の日々の動静が簡潔且つ詳しく記録されており貴重である。加えて斎藤茂吉自身の日記も全集の刊行とともに公開されるに至った。こうした記録を同時並行的に読み通してゆけば、歌人茂吉の人間像がくきやかに浮かび上がってくる。

 茂吉を巡る記録が、これほど多く残されているということは、詰まるところ人間茂吉が発する魅力の奥深さを物語っている。先に述べた記録にはまた、記しとどめた人それぞれの感性や人間性が反映されていて、個性豊かである。茂吉の言動を克明に記録するということは、記録者自身の命をも投影するということになるから、前述の随聞記なども、自ずから文学作品としての味わいを醸し出しているのは道理である。
 例えば佐太郎の随聞では、専ら聞き手に回った記述を通して、歌人茂吉の奥深い心の風景が記されている。筆致が静謐で、茂吉の心の機微や文学観など、言葉には表し難い世界が展かれている。茂吉の心に触れながら、現身の茂吉が帯びていただろう「暈」のようなものを捉えているのである。こうした茂吉の謦咳から学んだ作歌精神は、やがて佐太郎自身の心にも詩の泉を齎した。
 記録、それは人それぞれの命の投影であり、現代の歌界にも、透徹した「記録」の息吹が求められているように思われるのである。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」二月号    


   人麿のGestalt(ゲシュタルト)         佐々木比佐子



 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展を、秋の京都国立博物館に拝見した。現存する三十六歌仙絵の中でも最古の、且つ極めて美しいとされる「佐竹本三十六歌仙絵」は、大正八年(一九一九)以降おのおの断簡となっているが、それらが百年を経て会することでも話題の展覧会であった。
 歌仙絵に、工夫を凝らして表現される歌人の姿は、絵師の想像によるものである。唯、柿本人麿の姿には、元となる図像があった。十一世紀初めの藤原兼房の視夢による像で、雪のように梅の花びらが散るなか紙と筆を手にして坐り、ものを案ずる老人の姿である。「佐竹本三十六歌仙絵」の人麿も、その図像に准じている。
 ところで、茂吉先生の「柿本人麿私見覺書『人麿立傅の諸態度』」には、次のように記される。
 併し、人麿は、續日本紀に一記載も無いほどの低き身分の者であり、傅記も不明で、辛うじて眞淵が萬葉考別記に書いたほどのものを以て、満足せねばならぬほどのものである。それであるから、私等は、人麿を傅するにいろいろの態度を可能としつつも、所詮、人麿の作歌に直面することとならねばならぬ。そして人麿の歌の語々句々から、放射してくる一種の『勢』に同化しつつ、彷彿として其處に直に人麿の形態(Gestalt(ゲシュタルト))を畫くこととならねばならぬ。永く永く偶像化せられた『歌聖』の名が、ここに再び復活するのである。
 右の文章を受けて、「柿本人麿雑纂『人麿の肖像〔八〕根岸短歌會考案像』」文末に書かれているところの、茂吉先生が書く人麿像は興味深い。
 そこで若し愚案によって人麿を想像するなら、持統十年ごろ人麿三十三四歳の間のものを想像し、清痩といふよりも稍強く肥つてゐるやうにし、黒い髭髯があつて、さう長くはしない。…(中略)…脊は相當に高い方がよく、立像にすべきである。
 以下衣冠について等の詳しい考証が続くのであるが、茂吉先生による人麿の形態(Gestalt(ゲシュタルト))は、老人の姿ではない。人麿作歌の理解、享受の仕方が、王朝和歌の時代とは異なるからである。兼房の視夢による像は、『古今和歌集』収載の「ある人のいはく、かきのもとの人まろがうたなり」と左註に記す伝承の歌「梅花の歌」(334)「明石の歌」(409)、及びそれにまつわる和歌上達祈願から生じたもので、茂吉先生の構想する人麿像は、雄渾な挽歌をはじめとする萬葉集収載の人麿作品に直接感受された像である。二〇二〇年に於ても、『歌聖』の新しい姿と言える。




   二〇二〇(令和ニ)年「歩道」一月号    


   『日本書紀』千三百年         佐々木比佐子



 令和二年(二〇二〇年)は、『日本書紀』全三十巻の完成から、丁度千三百年を迎える年となる。天武天皇が六八一年に、川嶋皇子・忍壁皇子らに「帝紀及び上古の諸事を記し定める」ことをお命じになられて『日本書記』の編纂は開始されたと云う。それから三九年後の七二〇年に至って、『日本書記』は元正天皇に舎人親王より奏上された。
 『日本書記』が書き綴られたとされるこの長い期間には、大変興味深い文化の転換期が含まれている。暦は劉宋の元嘉暦から、唐の儀鳳暦に替っているが、これは文武朝の大宝律令の制定・施行と関わっている。そしてこの時「日本」という国号と、制度として明文化された元号(大宝)も定められた。
 令和元年のこの十月、和漢比較文学会の第三八回大会が上智大学で開催されたが、優れた幾つかの研究発表が心に残った。その中の一つに、葛西太一氏の「日本書記における語りの一方法―由来を示す「縁也」の表現形式をめぐって―」があげられる。発表のレジュメから、大いに興味を引くまとめの箇所を抜き出してみよう。


○日本書紀において事物起源を語る「~縁也。」の表現形式は、漢訳仏典の知識を受容し、由来譚を説話的に締め括る常套表現として新しく案出されたものと考えられる。
○(漢訳仏典には)特に「來生之縁」「堅劫之縁」のように現世・後世という時間の結び付きを示す例があることにも留意しておきたい。
○漢籍に「縁也」の用例を求めた場合、多くは「ふち」「かざり」の意を示すもので あり、古辞書にも同様の字義が確認される。


 漢訳仏典における「縁」は、もともと釈迦の前生の物語である本生譚を言い、「縁起」もその意味であるという。「現世・後世という時間の結び付き」という意味は漢訳仏典にみられるもので、漢籍における「縁也」には「時間の結び付き」の意識は無かったものらしい。右に示した「縁也」における漢訳仏典の知識の受容は、先に述べた唐の儀鳳暦に暦を替えた文武朝に始まる。「比較的新しい語りの表現形式ではないか」と、レジュメにはまとめられている。そして、この時期の新しい意味の受容は、現代にまで繋がっている。『佐藤佐太郎全歌集各句索引』を参考にすれば、仏典由来の意味の「縁(えにし)」で歌われた佐太郎先生の作品は五首ほどであろうか。中に師茂吉の逝去を詠んだ連作七首のうちの一首がある(『地表』昭和二十八年)。
  ありがたきえにしによりて現身の君の言葉を
  いくつ聞きけん