二〇二〇(令和二)年「歩道」七月号    


    先入観について(前)        中村 達


  短歌を始めて、すぐ万葉調という言葉を知った。先入観という観点から、万葉調について、私の見方を示して見たい。令和の元号が、万葉集に依っていることは周知のことである。万葉集は、質実、素朴で心に直截な表現であると思っていた。所謂、万葉調といわれているものである。だが万葉集は、端的に言って、天皇を中心にした貴族の歌集である。令和の年号の由来も、貴族の宴の時の前文に基づいている。
 万葉調がどのように生まれたか分からないが、「アララギ」から来ているのは、確かだろう。島木赤彦、斎藤茂吉に拠ることが大きい様に思う。結社の会員への啓蒙に使われたのだろうが、本当に的確なのだろうか。
 万葉集は、約一三〇年間の作品が二〇巻に纏められている。大伴家持が編纂したとされる。先入観を持って解釈された歌がある。
  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君
  が袖振る             額田王
  紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわ
  れ恋ひめやも          天武天皇
 この二首は、恋愛の歌と解釈されて来た。私もその様に理解していた。現在では、宴席での戯れの歌とされている。部立が雑歌であることと、額田王の年齢が四〇に近いことに依る。因みに、戦前の教科書は、この歌を載せていなかった。不道徳が理由らしい。また万葉集が、軍部に利用されたことも忘れてはならない。だからと言って、万葉集の価値が下がる訳ではないことは当然である。
 また巻一六の様な、特異な巻がある。先入観を持たずに、次の歌を見て欲しい。ここには万葉調とは、異質なものがある。
  吾妹子が(ひたひ)に生ふる双六の(ことひの)(うし)の鞍の上
  の(かさ)
            大舎人安倍朝臣子祖父
  わが背子が犢鼻(たふさぎ)にする円石(つぶれし)の吉野の山に氷魚(ひを)
  そさがれる
 「心の著く所無き歌二首」と題詞にある。舎人親王(日本書紀を編纂したと言われている)が命じて、意味をなさない歌を作らせた。それに応えた歌である。宴席に於いて、既にこの様な言葉遊びがあったことに驚く。漢字を使って、万葉仮名を考え出した人々の努力と工夫がそこにはあっただろう。
 万葉集の味わいは、奥が深く多方面に渡っている。訓読が今の読みで良いのか、中国文化の影響、発音の問題等々研究すべき事が多い。万葉調と単純に言ってしまって良いのだろうか。あまりに現代の短歌感に引き付け過ぎていないだろうか。万葉集を一括りに万葉調とするには抵抗がある。先入観を持たず、一首一首を味わうべきだろう。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」六月号    


    文学の地山形(後)         高橋 良


 今年は塚本邦雄の生誕百年である。「短歌」四月号で特集が組まれた。
 塚本邦雄は褒めちぎりはしない。例えば昨年講談社文芸文庫となった『茂吉秀歌「赤光」百首』を開けばわかるように、一首ずつ味わいながら評価を下してゆく過程には否定も混じる。短歌への愛からあふれ出した、しかも一筋縄ではゆかない解釈だからこそ、読者に茂吉の歌の魅力を手渡せるのだろう。(尾崎まゆみ「手渡されたもの」)
 「はるばるも来つれこころは杉の樹の(あけ)の油に寄りてなげかふ」(「木こり 羽前国高湯村」)の已然形切れ「来つれ」について塚本はこのような批評を加えている。
 便利な用法だが、私は『赤光』に於てさへ、ひよつとすると一種の惰性ではあるまいかと疑ふこともある。(『茂吉秀歌「赤光」百首』)これに続けて、この歌の解釈としてこう記す。彼はむしろ、輝く雪の中で、斧を振上げてゐる方がより似つかはしい自然児、野人であつたのかも知れず、その要素傾向は一生つきまとふ。「はるばるも来つれ=なげかふ」それも、彼にとつて決して感傷ではなかつた。思へば、この杉は彼の分身でもあつたらう。 同
 塚本は杉の木に茂吉を見出だしているが、佐太郎も杉の木にかつての茂吉の姿を見出だしている。
  まぢかくの杉の老木に蟬なくや師がをさなく
  て遊びける庭 
『歩道』「金瓶」(昭和十)
 二十代の佐太郎は山口茂吉とともに師の故郷を旅した。茂吉の里金瓶は、現在上山市の北部にある。
 金瓶(かながめ)の川わたるとき花さける合歓の一木のこ
  ころがなしも            同
 「かながめ」と濁っているが、茂吉の随筆「念珠集」でも「かなかめ」とルビが振ってあるし、一般的な読み方でも濁らない。この地区は茂吉の生まれた当時(明治十五年)、南村山郡金瓶村であった。南村山郡は、現在の山形市の一部と上山市の大部分に当たる。ちなみに現在の山形市の一部や天童市は旧東村山郡に当たる。そのため、佐藤佐太郎『互評自註歌集 歩道』で金瓶が「東村山郡」とされているが、正しくは南村山郡である。
 茂吉の蔵王山頂歌碑(陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中にたつ)は昭和九年に立てられた。茂吉自身は昭和十四年に歌碑行をしたので、佐太郎は茂吉より早く見に行ったということだ。『互評自註歌集 歩道』で歌碑は「駒ヶ岳」にあるとされているが、正しくは熊野岳である。これが蔵王連峰の最高峰(標高一八四一メートル)。そこに立つ茂吉歌碑は麓の金瓶に向けられている。




   二〇二〇(令和二)年「歩道」五月号    


    文学の地山形(前)         高橋 良


 本年二月二十日、芳賀徹氏が亡くなった。享年八十八歳。山形生まれの比較文学者で、東大名誉教授であった。
 秋葉四郎先生は、斎藤茂吉記念館館長として、たびたび芳賀氏の茂吉評価について触れてきた。芳賀氏は茂吉を「二十世紀日本最大の詩人」と評した。
 比較文学とは、世界中の文学に目を向けて文学を研究する学問だ。芳賀氏は雨の詩ということで、蘇東坡の七言絶句を挙げている。


  ()(ざん)は烟雨 浙江は潮
  未だ到らざれば千般恨み消せず
  到り得帰り来つて別事無し
  廬山は烟雨 浙江は潮


 芳賀氏はこの漢詩を以下のように解釈した。

 真意は、悟る前は一生懸命その境地を求め、やっと悟りの境地に至ったが、また日常に戻ると何も変わっていない。ただその精神の内容は変わっていると言う意味です。(『水の文化』十七号「日常に非日常を生み出す雨の緊張感 表現される雨」)

 佐太郎にも廬山を詠み込んだ歌がある。
 『天眼』「銚子詠草」(昭和五〇)の一連にあり、「〔四月〕二十五日、雨」という詞書が付く。

  廬山にて酒許されし淵明の場合をおもひ酒のみゐたり

 謡曲「三笑」にもなっている故事「()(けい)三笑」が素材であろう。東晋(五世紀)の詩人陶淵明(とうえんめい)は友と、廬山に隠棲していた()(おん)禅師のもとを訪ねた。三人は滝や菊の花を見て酒を飲み、輿に乗り舞う。禅師は、虎渓の橋を越えないとの誓いを立てていたが、二人を送りながら橋を渡ってしまった。誓いが破れてしまったことに気づき、三人は大笑いした。
 廬山は慧遠禅師が(びゃく)(れん)社を結成した仏教の霊山である。江西省北部にある山で、標高一五四三メートルだ。
 山形市にも仏教の霊山があった。標高一三六二メートルの(りゅう)(ざん)である。蔵王連峰の一山であり、平安時代に開山した。芭蕉が訪れた、同市の山寺((りっ)(しゃく)())の開山と同時期である。瀧山には西行法師が訪れたとされる。鎌倉時代の封山まで繁栄した。
 佐太郎は蘇東坡の一句のように「未だ到らざれば千般恨み消せず」という気持ちだったろうか。今から八十五年前、昭和十年に二十代の佐太郎は蔵王の茂吉歌碑を目指した。




   二〇二〇(令和二)年「歩道」四月号    


    記録(二)             香川哲三


 掛替えの無い一人一人の記録、それを人は何らかの形によって後世に伝えようとする。本来、私秘的な記録である筈の日記ですら、場合によっては公開の対象ともなり得るのである。ホモサピエンス繁栄の礎ともなってきた記録の保存、公開・活用は、遠くの代よりさまざまに試みられて実用化が進んできた。言葉の世界にあって、長らく首座を占め続けているのが印刷、即ち紙の本である。
 一方、近年は電子媒体による記録保存技術が急進しており、既に多くの分野で紙の本との共存が進んでいる。両者の違い、取分け読み手にとっての長所、短所もさまざまに研究されており、興味深いものである。紙の本が優れているのは、その様式性にあると言って良い。例えば頁を捲る時の手触り感や、一巻として纏められた本のどの位置に今読者が居るのかといった、一巻を俯瞰しながら読み進んでゆく感覚は、今の電子書籍からは得難い長所である。では電子書籍は全てに於て紙の本に及ばないのかと言えばそうではない。膨大なボリュームの書籍であっても保存場所に困ることは無いし、文字単位の検索も自在である。又、出版経費や在庫の悩みから完全解放されるのも魅力だし、誤植なども容易に修正でき、文字の拡大縮小も自由である。今や、第六世代移動通信システム(6G)に向けた開発が進められている時代である。何れは立体画像の転送も可能となるだろう。三次元プリンターは既に実用化されており、芸術分野でも絵画や彫刻などの保存・鑑賞に革命的な変化を呼び込み始めている。
 技術革新は、長所ばかりでは無く短所や新しい課題を伴うものだから、私たちは冷静にそれらを見極めなければならない。さて歌界では、今後どのような展開が待っているのだろうか。それらを考える一つのヒントに、当面は、短歌関係著書の性格区分が必要なように思われる。検索が大切な役割を果たす書、一首一首の前に佇立して作品を味わってゆくべき歌集、或いは章を短く立てて構成する本などでは、先に述べた紙の本特有の長所を、電子書籍の長所が凌ぐのではないかと私は考え始めている。電子書籍と紙の本、各々の性格を活かしながらの共存がしばらくは続くだろう。そして電子書籍は、現在の出版業界、歌集・歌書の在り方、本の価格設定、更には歌壇や各賞の授与、短歌専門誌の未来にも決定的な影響を及ぼすのではないか、そんなことを思うのである。私は、自身の諸事情により電子書籍出版に踏み込んでしまったが、今は歌集も含めて、しばらくは電子書籍の可能性と限界を、自著を通して見極めてゆきたいと考えている。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」三月号    


    記録(一)             香川哲三



 人それぞれの境涯は、生誕から死へと向かってゆく儚い時空の中に明滅している。いつの日かは跡形もなく消え去ってゆくだろうそうしたわが生の足跡を、古来より人は、形あるものに刻印して時空の壁を越えようとしてきた。生への愛惜、それがおおよその芸術を成り立たしめている機軸ではないかと思われる。文学、そして短歌もこうした儚いものへのいとおしみに彩られ、また支えられてもいる。
 翻って、万葉の時代から続く長い短歌
(和歌)史の中に、確たる足跡を刻んだ斎藤茂吉の魅力は、究極のところ、成された短歌の比類なき響きにあるというのは佐藤佐太郎が夙に述べていることである。そうした茂吉の行動、息吹を、幾たりかの門人が克明に記録しており、私たちは今に生き身の茂吉を、先達の綴った言葉を通して親しく感じ取ることができる。随行記としては主なものに、佐藤佐太郎の二冊の著書『童馬山房随聞』、『斎藤茂吉言行』、大石田時代の茂吉の日々を活き活きと綴った板垣家子夫の『斎藤茂吉随行記』上下巻、昭和十六年より晩年に至るまで、茂吉との問答や自作の添削などを書き残した田中隆尚の『茂吉随聞』上下巻があって、何れも大冊である。随行記ではないが、玉井崇夫を中心とした翻刻『山口茂吉日記』も、斎藤茂吉の日々の動静が簡潔且つ詳しく記録されており貴重である。加えて斎藤茂吉自身の日記も全集の刊行とともに公開されるに至った。こうした記録を同時並行的に読み通してゆけば、歌人茂吉の人間像がくきやかに浮かび上がってくる。

 茂吉を巡る記録が、これほど多く残されているということは、詰まるところ人間茂吉が発する魅力の奥深さを物語っている。先に述べた記録にはまた、記しとどめた人それぞれの感性や人間性が反映されていて、個性豊かである。茂吉の言動を克明に記録するということは、記録者自身の命をも投影するということになるから、前述の随聞記なども、自ずから文学作品としての味わいを醸し出しているのは道理である。
 例えば佐太郎の随聞では、専ら聞き手に回った記述を通して、歌人茂吉の奥深い心の風景が記されている。筆致が静謐で、茂吉の心の機微や文学観など、言葉には表し難い世界が展かれている。茂吉の心に触れながら、現身の茂吉が帯びていただろう「暈」のようなものを捉えているのである。こうした茂吉の謦咳から学んだ作歌精神は、やがて佐太郎自身の心にも詩の泉を齎した。
 記録、それは人それぞれの命の投影であり、現代の歌界にも、透徹した「記録」の息吹が求められているように思われるのである。





   二〇二〇(令和二)年「歩道」二月号    


   人麿のGestalt(ゲシュタルト)         佐々木比佐子



 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展を、秋の京都国立博物館に拝見した。現存する三十六歌仙絵の中でも最古の、且つ極めて美しいとされる「佐竹本三十六歌仙絵」は、大正八年(一九一九)以降おのおの断簡となっているが、それらが百年を経て会することでも話題の展覧会であった。
 歌仙絵に、工夫を凝らして表現される歌人の姿は、絵師の想像によるものである。唯、柿本人麿の姿には、元となる図像があった。十一世紀初めの藤原兼房の視夢による像で、雪のように梅の花びらが散るなか紙と筆を手にして坐り、ものを案ずる老人の姿である。「佐竹本三十六歌仙絵」の人麿も、その図像に准じている。
 ところで、茂吉先生の「柿本人麿私見覺書『人麿立傅の諸態度』」には、次のように記される。
 併し、人麿は、續日本紀に一記載も無いほどの低き身分の者であり、傅記も不明で、辛うじて眞淵が萬葉考別記に書いたほどのものを以て、満足せねばならぬほどのものである。それであるから、私等は、人麿を傅するにいろいろの態度を可能としつつも、所詮、人麿の作歌に直面することとならねばならぬ。そして人麿の歌の語々句々から、放射してくる一種の『勢』に同化しつつ、彷彿として其處に直に人麿の形態(Gestalt(ゲシュタルト))を畫くこととならねばならぬ。永く永く偶像化せられた『歌聖』の名が、ここに再び復活するのである。
 右の文章を受けて、「柿本人麿雑纂『人麿の肖像〔八〕根岸短歌會考案像』」文末に書かれているところの、茂吉先生が書く人麿像は興味深い。
 そこで若し愚案によって人麿を想像するなら、持統十年ごろ人麿三十三四歳の間のものを想像し、清痩といふよりも稍強く肥つてゐるやうにし、黒い髭髯があつて、さう長くはしない。…(中略)…脊は相當に高い方がよく、立像にすべきである。
 以下衣冠について等の詳しい考証が続くのであるが、茂吉先生による人麿の形態(Gestalt(ゲシュタルト))は、老人の姿ではない。人麿作歌の理解、享受の仕方が、王朝和歌の時代とは異なるからである。兼房の視夢による像は、『古今和歌集』収載の「ある人のいはく、かきのもとの人まろがうたなり」と左註に記す伝承の歌「梅花の歌」(334)「明石の歌」(409)、及びそれにまつわる和歌上達祈願から生じたもので、茂吉先生の構想する人麿像は、雄渾な挽歌をはじめとする萬葉集収載の人麿作品に直接感受された像である。二〇二〇年に於ても、『歌聖』の新しい姿と言える。




   二〇二〇(令和ニ)年「歩道」一月号    


   『日本書紀』千三百年         佐々木比佐子



 令和二年(二〇二〇年)は、『日本書紀』全三十巻の完成から、丁度千三百年を迎える年となる。天武天皇が六八一年に、川嶋皇子・忍壁皇子らに「帝紀及び上古の諸事を記し定める」ことをお命じになられて『日本書記』の編纂は開始されたと云う。それから三九年後の七二〇年に至って、『日本書記』は元正天皇に舎人親王より奏上された。
 『日本書記』が書き綴られたとされるこの長い期間には、大変興味深い文化の転換期が含まれている。暦は劉宋の元嘉暦から、唐の儀鳳暦に替っているが、これは文武朝の大宝律令の制定・施行と関わっている。そしてこの時「日本」という国号と、制度として明文化された元号(大宝)も定められた。
 令和元年のこの十月、和漢比較文学会の第三八回大会が上智大学で開催されたが、優れた幾つかの研究発表が心に残った。その中の一つに、葛西太一氏の「日本書記における語りの一方法―由来を示す「縁也」の表現形式をめぐって―」があげられる。発表のレジュメから、大いに興味を引くまとめの箇所を抜き出してみよう。


○日本書紀において事物起源を語る「~縁也。」の表現形式は、漢訳仏典の知識を受容し、由来譚を説話的に締め括る常套表現として新しく案出されたものと考えられる。
○(漢訳仏典には)特に「來生之縁」「堅劫之縁」のように現世・後世という時間の結び付きを示す例があることにも留意しておきたい。
○漢籍に「縁也」の用例を求めた場合、多くは「ふち」「かざり」の意を示すもので あり、古辞書にも同様の字義が確認される。


 漢訳仏典における「縁」は、もともと釈迦の前生の物語である本生譚を言い、「縁起」もその意味であるという。「現世・後世という時間の結び付き」という意味は漢訳仏典にみられるもので、漢籍における「縁也」には「時間の結び付き」の意識は無かったものらしい。右に示した「縁也」における漢訳仏典の知識の受容は、先に述べた唐の儀鳳暦に暦を替えた文武朝に始まる。「比較的新しい語りの表現形式ではないか」と、レジュメにはまとめられている。そして、この時期の新しい意味の受容は、現代にまで繋がっている。『佐藤佐太郎全歌集各句索引』を参考にすれば、仏典由来の意味の「縁(えにし)」で歌われた佐太郎先生の作品は五首ほどであろうか。中に師茂吉の逝去を詠んだ連作七首のうちの一首がある(『地表』昭和二十八年)。
  ありがたきえにしによりて現身の君の言葉を
  いくつ聞きけん