二〇一九(令和元)年「歩道」十一月号    


   新元号「令和」を歌う(1)       樫井礼子



 令和元年を迎えた今年、それを歌った作品にどのようなものがあるか興味があった。五月に新元号になったのだから、その瞬間を詠んだものはちょうど二ヵ月後辺りかと思い、「角川短歌七月号」に期待した。その巻頭作品四歌人の最初に載っていたのが、秋葉四郎先生の「五月の光」二十八首の作品群であった。その前半を抄出してみる。
  家々に薔薇咲きこころ改まる令和元年五月の
  光
  何がなし(いのち)の延ぶる思ひにて新しき世をわ
  れは迎ふる
  新元号カウントダウンの中継がけぢめにて(かす)
  けき希望もたらす
  あるがまま残る日々生き新しき令和にうつつ
  行末(ゆくすゑ)託す
  遣り残すことははやばや成し遂げて新時代を
  われ悠々生きんか
傘寿を越えて尚一層短歌道に邁進する作者の積極性が、新時代を迎えても作品に堂々と表れているのが心地よい。どの作品にも後退的な言葉が一つもなく時代の変化の際にも物憂げな気配さえないことに潔い生き方が見える。この真実を見据えつつ楽天的とさえ思える積極性が、新時代に必要なのではないかと実感する一連であった。
 同じ巻頭作品内に梅内美華子氏の
  令和初の満月といふ初をつけ喜びたがる地上
  に遠く
という一首がある。下句の内容から新時代に湧く人間界を揶揄しているようであるが、月をして大自然の普遍を表現している。「カウントダウンの中継がけぢめ」という前向きな捉え方とは異なり多少曲のある視点と受け取れる。
 同巻頭作品小島ゆかり氏の一連には、改元に関わるか定かでないが、
  ああ五月、未来長者の若者にまじりてさわぐ
  過去長者われ
があり、未来ある若者と過去に栄光を得た自分との対比がおもしろい。「長者」という表現が適当であるかどうか。
 他にも少数ながら令和の歌はあったが、遊びの視点で歌った軽いものや人間界の負の側面を嘆息したものだった。
 同号の田野陽氏の「平成畢る」は、
  生涯に二度にわたりて年号の替るに遭ふは望
  外のこと
  新しき世にさまざまの思ひ湧きこころ慎みて
  朝を迎ふる
と、時代の変遷の中にて歌う一連は、しみじみと身に引きつけて感慨を吐露している。新元号を迎えるにおいても「歩道」結社の歌人の、切実にものを見て作者の影のある歌を作るという、短歌の王道を歩む姿を再確認できる。「歩道」八月号にも会員の令和を歌った作品が並ぶ。武井康子氏の歌
  老いてより令和に生きる自らの励ましに買ふ
  ぶだうの苗木




   二〇一九(令和元)年「歩道」九月号    


   「万葉調を最も尊敬する」(1)
           (佐藤佐太郎)
                       大塚秀行



 「令和」の時代が始まった。この元号は、万葉集巻五の中の「梅花の歌三十二首」の序にある「初春令月、氣淑風和」に典拠しており、万葉集が大いに注目される昨今である。ここで、想起されるのが佐藤佐太郎の次の文言である。


 私達は純粋な詩としての短歌がどういふ声調を具備しなければならぬかといふ自身の問題を追及して「万葉調」に落ち着くのである。  『純粋短歌』より


この「万葉調」だが、斎藤茂吉以来、佐藤佐太郎、そして多くの歌人が作歌上最も尊重している歌風である。大辞林に「万葉集に特徴的な歌風・歌調。発想・内容としては生活感情と密接し、素朴・直裁あるいは率直・切実で、またしばしば雄大・荘重である」とあるが、あらためて「万葉調」について記してみたい。万葉集が成立したのは八世紀後半だが、その後、明治時代に至り正岡子規が当時の歌壇の「腐敗」した状況を批判し、広く世間に短歌革新を叫ぶ中で万葉集に着目している。子規は『歌よみに与ふる書』に、


 ○真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ(など)当時にありて実にえらいものに有之候へども、(せい)らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。
 ○貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬこと……。
 ○『古今集』以後にては新古今ややすぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。しかしその善き歌と申すも指折りて数へるほどの事に有之候。


と述べ、具体的には、柿本人麿の一首を「後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝ること万々に候」故に善しとし、大江千里の一首を「理屈なり蛇足なりと存候」故につまらぬとするなど、子規は「歌は感情を述ぶる者」という歌の本質から万葉調を奨めたのである。
 この万葉調をさらに強く推奨したのが斎藤茂吉である。『万葉短歌声調論』の中に、藤原定家の「折しもあれ雲のいづくに入る月のそらさへをしき東雲のみち」や柿本人麿の「ひむかしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」などを例に挙げ、


 かういふ具合に、試に藤原定家の歌と、万葉集の歌とを並べて見れば、その各の声調のありさまが如何にも截然と分かれてゐる。即ち、『万葉調』のいかなるものだかといふことが直ぐ分かるのである。


とし、次の様に続ける。
(以下、二〇一九(令和元)年「歩道」十月号



 先づ此処に並べた万葉の歌についていふならば、第一定家の歌の方は屈折が多くくだくだしく面倒であるが、万葉の歌の方が、言葉が順直である。感じに応じて言葉を使ひくだしてゐるから、順当で分かりよい。第二に、定家の歌の方は細く中に入つてゆくやうな調子に、幾らか語気の気取つたところがあるのに、万葉の方は調子が太くて重く厚みがある。そして言ひ振りが素朴で単純、稚雅なところがある。第三に、定家の歌は、読んでもぴんと直ぐ来ない。何かぼんやりした、抽象的なところがあるのに反し、万葉の歌の声調からは、読んで直ぐ浮んでくるものがある。つまり具象的である。


と述べ、万葉調の特徴を示している。そして、茂吉は『短歌初学門』の中で、「一首一首の声調は意味(内容)と響き(音楽的象徴)と相俟つて成り立つものである」とし、「抒情詩は情の表出」という認識のもと、「実際の事実としてあらはれた」万葉調、古今調、新古今調について、


 実際の歌を読み味ひて見て、古今調、新古今調は到底万葉調には及ばないとおもふものである。短歌は万葉集に於て盛大を極めた、発達すべき可能性は万葉集に於て既に暗指せられて居る。これ私等が万葉集を手本としようとする一つの客観的論拠であるのである。


と述べ、茂吉は万葉調を確固たる規範として生涯の作歌活動に当たったのである。このような中で、茂吉を正師と仰ぐ佐藤佐太郎が、その作歌精神・根本態度を受け継ぎ、発展させるべく作歌活動に邁進したのである。
 ここで、前回の「窓」に引用した佐太郎の文言が浮かぶ。「純粋な詩としての短歌」と根幹を押さえ、「短歌の具備すべき声調」を「万葉調に落ち着く」とした文言の確かさと重さが我々に鮮やかに迫ってくるのである。そして、『純粋短歌』の中で続けて、


 万葉の作品は四千余首(中略)全体として共通な特色をもつ。強い波動を持つて、一首が緊張してをり、健康で生き生きした語気を持つたものが、万葉の調べである。


と述べ、「現代人の歌もそういう調べをもつて造られるのがよい」としたのである。佐太郎は「歩道」編集委員に次の「選歌注意」を遺している。


一、選は良い点を発見するやうにつとめる。良い点は内容にも調子にもある。万葉調を最も尊敬する。


 「歩道」に歌を学ぶ一人として、「万葉調を最も尊敬する」をかみしめつつ作歌活動に当たっていきたい。




   二〇一九(令和元)年「歩道」八月号    


   俳句と短歌(下)            中村達



 「短歌は日本語の底荷だと思っている。そういうつもりで歌を作っている。俳句も日本語の底荷だと思う。短歌、俳句そういった伝統的な詩歌の現代においてもつ意味は、この底荷としての意味を措いてほかにないと思っている」。
 これは『短歌一生』の上田三四二の言葉である。短歌も俳句も同列に、日本語を支えているとの考えだ。二者に上下はない。ただ、表現の違いに依るものと考えている。
 実際の作品を見ながら、比較を試みる。
1 冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に
  海はかくるる
2 あるときは船より高き卯浪かな
3 高浪にかくるる秋のつばめかな
 1は佐藤佐太郎、2は鈴木真砂女、3は飯田蛇笏の作品である。
 佐太郎の作は、自然と作者が一体となっている。自然現象の中の一瞬に詩を発見している。時間的空間的把握が見事である。
 真砂女の作は、分かりやすい。船と卯浪を対照的に捉え、そこに詩を見出している。俳句の把握の仕方である。この作品は分かりやすいが、幾分意味の奥行きが浅く感じられるだろう。
 蛇笏の俳句も真砂女の捉え方と似ている。2は卯浪(季語)を強調し、3は燕(季語)を強調している。俳句の場合季語が大切なのである。だが佐太郎の歌は、季節を詠ってはいるが、意味の中心は、自然のありのままの大きさ、豊かさを作者の眼を通して感じているのである。対象は広大な海であり、それを瞬時に隠す浪の存在なのである。瞬間で悠久の時間がある。俳句で言えば、一物仕立てと言う。この短歌は意味の深さを蔵しているとともに、調べが豊かである。繰り返し読むとき味わい深い歌となる。
 もう一つ作品を見てみよう。
1 秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ば
  れて行く
2 行く馬の背の冬日差はこばるる
 2は中村草田男の作品である。『現代俳句』の山本健吉は「ぽかぽかと冬日ざしを『はこばるる』と言ったのは巧みというほかない」と記している。
日差しを捉えたのは、佐太郎と同じである。佐太郎は光の本質を、草田男は馬と光の融合を発見している。どちらも微妙に処を捉えて力量がある。
 俳句は複雑な事実を大きく、客観的に把握する。把握の奥の複雑さを季語に思いを込めつつ単純化してゆく。
 短歌は俳句と同じ捉え方をするが、言葉の調べ、一首の調子を最初から内在している。俳句の活用は、対象を一期に大きく客観的に把握する、その力を養うことにあるだろう。




   二〇一九(令和元)年「歩道」七月号    


   俳句と短歌(上)            中村達



  作歌真にある「眼に見えるものを見て、輝と響をとらへ」との箇所は、作歌に於ける対象の捉え方、感受の仕方をどの様にしたらよいかを考えさせる。個人個人によって、その工夫は色々あるだろうが、私は俳句を読むことで、一つの方法を見つけようとした。二十年以上も前のことだ。芭蕉の「物の見えたるひかりいまだ消えざる中にいひとむべし」との言葉を頼りに、対象の見方、捉え方、感受の在り方などを広げようとして、俳句に近づいたのである。対象を見ることにおいては、短歌も俳句も同じであろうが、俳句の方が、対象を一気に捉える力が有る様に思ったのである。そこには俳句の必要性があったのである。俳人は誰でもよかったのだが、読んで分かりやすいもの、感性の働いたものを好んでいた。中でも細見綾子が好きであった。
 ・どんどして雪汚れしが清かりき
 ・遠雷のいとかすかなるたしかさよ
 ・春雷や胸の上なる夜の厚み
 ・寒の空ものの極みは青なるか
 一句の表現云々よりも、一瞬に捉えた感じが、私には必要であった。
 「現代短歌新聞八十二号」(平成三十一年一月五日発行)の巻頭インタビューで栗本京子氏が、他のジャンルの文学を読むかとの問いに俳句を上げていた。栗木氏によれば、四十歳前後から俳句のアンソロジーを読み、季節感やひらめきを得ていたと言う。また「俳句は即物的に切り取るので、ヒントだけもらって自分のなかで醗酵させることができます」と答えている。
 俳句を作歌に役立てようと思うとき、この即物的と言うことが重要であると、私は思っている。まず、対象を端的に捉えて切り取ること、その即物性が俳句の魅力なのである。
 「二物衝撃というように、どんな言葉とどんな言葉を出会わせているかにヒントをもらって、それをちょっとずらして自分なりに短歌にしてみるとか」とも答えている。
 この部分を読むと、対象を捉えたあと、言葉をどの様に表現するかの問題である。栗木氏の短歌を思い起こすと、何故か納得する。言葉は分かりやすいが、意味をずらした様な処がある。これは一つの技術であって、栗木氏が会得した俳句の活用法なのだろう。
 これは楽屋話である。大切なのは短歌作品が良いかどうかである。作歌の過程はどうでもよいのである。
 あれこれ考えていると、芭蕉の言葉が思い出される。短歌と俳句は本質的に違いがあるが、ものの見方だけは、共通点が有る様に思われてならない。同じ短詩型として。





   二〇一九(令和元)年「歩道」六月号    


   新村 出                高橋良



 令和元年六月は、「歩道」が活版印刷になった更新第一号から七十一周年目である。その昭和二十三年六月号巻頭には、『広辞苑』編者として有名な新村出(しんむらいづる)の寄稿「春雨の歩道」がある。
     一
 蕗の(ママ)…ことしの勅題の春山には、きさいの宮のお歌にさへそれが現れたではないか。破天荒と申してもよからうと思ふ。
  ふきのたうつむ手やすめて春霞たなびくをち
  の山をみるかな
けふ九重の御苑ににほひぬる蕗の塔を、その岡に菜つます児と、みふぐしもたせられて摘みませる構図は、想像してみても上代の純撲を感ぜしむるではないか。
     一
 出は二十三年歌会始の皇后陛下御歌を引用・評釈している。茂吉はその年の歌会始の選者であった。茂吉のその年の詠草は先月号の同欄で紹介した。
 先月は昭和天皇と最上川との関わりについて記した。昭和天皇は二十二年八月に山形県に行幸した。十六日には上山市の村尾旅館において茂吉が拝謁、言上の機会に浴した。その中で茂吉は新村出について述べた。
     一
 関口県令は只今京都大学名誉教授の新村出先生のお父さまで、山形県から山口県令に転任なられる時にはお母さまが御妊娠してゐられましたので、新村教授は、私も実質的には山形県人だといつて居られます。
     一
 出自身、「実父の任地山口県の山口に生れ前任地の山形から転任して程なく生れた因縁によりて、山山を重ねて、出といふ文字の名をつけられ」たと記している。十四歳のときに新村家の養子となった。
 彼は学者として有名だが、歌人の側面もあり、『重山集』や『牡丹の園』といった歌集がある。出の弟関口鯉吉は茂吉と「一高で同時代の同窓で知合であり、後年彼れ(ママ)の次女たる関口登紀子が「アララギ」に入門」した。(「茂吉大人を偲ぶ」「歩道」昭和二十八年五月)「アララギ」休刊後、登紀子は「歩道」の初期会員となる。
 奇しくも茂吉の亡くなった年である二十八年、出は歌会始で召人となった。お題「船出」で、
  とほつ南新治人(にひはりびと)ら乗りあへる大和おほ舟けふ
  も出でゆく
と詠んだ。戦後再び増えた海外移住のことだろう。南とは南米諸国などを指していよう。「乗りあへる大和おほ舟」からは、日本人としての誇りを持ちながらも、不安を抱え異国へと向かう人人の表情が思われる。
 佐太郎は新村出編『広辞苑』についてこう記している。
     一
 短歌の勉強をする以上は、…岩波書店発行の「広辞苑」くらゐは持つてゐて欲しい。(『歩道』昭和四十一年一月号)
     一
 平成三十年に『広辞苑』第七版が出された。詠むにおいても、読むにおいても辞書により言葉を吟味・玩味したい。




   二〇一九(令和元)年「歩道」五月号    


   最上川の歌               高橋良



 平成元年生まれの筆者が、新元号元年初月号の「歌壇の窓」を執筆できるとは大変光栄である。
 本誌平成三十一年三月号では、現代における短歌のあり方について改めて考えさせられた。「歌壇の窓(286)」で香川哲三氏は「一人一人の生の中軸に在る心、そこに限りない価値を見出してゆくのが、例えば短歌である」とした。「「歩道通信」「後記」抄録」には昭和四十三年六月号の後記が掲載されていた。そこで佐太郎は、「短歌は…自分の生活なり感想なりが素直に出てゐればそれで一応は満足してもよいのである」と書いていた。両者の言葉に共通するのは「素直さ」だ。
 そのような表現としての歌について、今回は歌枕に着目してみる。それは大正・昭和の歌会始でも詠まれた。筆者の住む山形の母なる「最上川」のことだ。
  最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらず
  この月ばかり        よみ人知らず
           『古今和歌集』巻第二〇
古今集の時代から最上川は歌われていた。茂吉が「万葉の、『殿の稚子(わくご)が取りて嘆かむ』も娘の歌だが、古今の方が調が整はずに却つていい」(『新選秀歌百首』昭和八)と評する歌だ。その後、多くの和歌や俳句にも詠まれた歌枕であるが、江戸時代後期には良寛が、
  最上川くだる小舟の苫あれて月もり来たる板
  敷の山
と詠んだという。古今集の歌と同様、舟と月のモチーフとともに用いている。良寛は実際に山形を旅してこの歌を詠んだ。
 大正十五年の歌会始で、東宮(後の昭和天皇)御歌として、
  (ママ)き野をながれゆけども最上川うみに入るま
  でにごらざりけり
が披講された。前年に最上川河口のある酒田市で詠まれたものである。この歌は曲も付いて昭和五十七年に「山形県民の歌」となった。
 戦中戦後、山形県大石田に暮らした茂吉は身近に見た最上川のさまざまな有り様を多くの歌にした。
  月読ののぼる光のきはまりて大きくもあるか
  ふゆ最上川    『白き山』昭和二十二年
この歌にも古今集からの流れを継いで月のモチーフが見られる。
 翌年二十三年の歌会始で、茂吉は選者として、
  春山に入りももどりのこゑ聞けばよみがへり
  来むこころとぞおもふ
と「春山」の題で詠んだ。
 茂吉没後十三年目となる四十一年の歌会始では干葉出身の橋本徳寿が選者となった。「声」の題で、
  思ひ来し最上川辺の大石田聴禽書屋に聴くも
  もどりの声
と茂吉同様「ももどり」を詠み込んで披講した。翌四十二年には徳寿と佐太郎はともに歌会始の選者となった。
 歌枕「最上川」は古来のイメージを残しながら、昭和天皇や茂吉により詠まれ、現代でも詠み継がれている。





   二〇一九(平成三十一)年「歩道」四月号    


   短歌作品の表記             香川哲三



 昭和六十一年の内閣告示「現代仮名遣い」前書き冒頭に「この仮名遣いは、語を現代語の音韻に従つて書き表すことを原則とし、一方、表記の慣習を尊重して一定の特例を設ける…」とある。この特例には助詞「は(発音ワ)」や「へ(同エ)」などの頻用語を含め、大切な語がかなり含まれており、中には特例の特例もあって、現代語の音韻に従った仮名遣いが徹底されておらず、通常の感覚ではどう表記して良いのか未だに迷うものがある。一例を挙げれば「ゆうずう」(融通)の如きである。
 仮名文字は遠く平安初期に万葉仮名をもとに成立したものだが、当初は仮名文字と発音が一対一で対応していたという。それが時代を経るに従い、例えば「ゐ」と「い」が同じ発音になるなど、一つの音韻に複数の仮名が充てられる例が生じた。こうした実態等を踏まえ、昭和二十一年に概ね現代語の音韻に沿った「現代かなづかい」が公布され、更に冒頭の告示に至っている。
 ともあれ、短歌を表記する場合に今の私達は、この「現代仮名遣い」によるか、言葉の歴史が反映された「歴史的仮名遣い」の何れかによることになるから、短歌大会の詠草などでは、二つの異なる仮名遣いが混在することになる。ために、正しい表記か否か、誤字なのか判断に迷ったり、言葉の意味を取り違えてしまうことさえ生じかねない。
 私は以前、現代仮名遣いが表音に徹していれば、こうした問題は回避出来ただろうなどと考えていたが、事情を知れば知るほど、物事はそう単純では無いことに気付いた。加えて短歌にとっては、「なり」とか「たり」といった文語、乃至はそれに準じた表現、即ち文語脈は大切な働きをしており、今なお現役の文語もある。そうした中で語の音韻に従って一対一の仮名遣いを貫徹すると、様々な不具合が生じて来る。逆に、外来語や花の名前などを仮名表記する場合、歴史的仮名遣いではどうもしっくりしない場合もある。こうした例では一部、表語文字(一語=一字で、音と意味を同時に表す)たる漢字による方法も無くはない。しかし、拗音等を含む外来語を歴史的仮名遣いに徹して表記すると、分かりにくい例が生じてくる。
 日本の言葉は今後も、発音を含め変化を続けてゆくだろう。世代交代、IT革命、AI革命も急である。音節文字(仮名)或いは音素文字(ローマ字)で行われている日本語のキー入力も恐らく、無意識下で言葉の表記などに様々な影響を及ぼし始めている。短歌の歴史的仮名遣い表記重視の私は、漢音・呉音も含めた音韻の由来、仮名遣いの歴史、日本語表記の将来などを改めて熟考しなければならないと強く感じている。





   二〇一九(平成三十一)年「歩道」三月号    


   社会と短歌               香川哲三



 平成の時代も間もなく終わろうとしている。振り返ってみれば、改めて様々な出来事があったものだと感慨一入である。取分け私の脳裏を過ってやまないのは、世界各地で戦争や紛争が絶えなかった事、社会・経済に大きな変動が起きつつある事、そして災害が多発した事である。
 これらは相互に関係があるのではないかと感じてはいたが、年末に近づいた頃、水野和夫氏、山口裕之氏、其々の所感を新聞で読み、その感を一層深めたのであった。水野氏は歴史学者ブルクハルトの言葉を引きながら「歴史の危機」を語り、資本主義を軸とした近代システムからの転換を目指すべきとの論、一方で山口氏は「選択と集中」の名のもとに進められてきた改革に伴う、大学の疲弊を述べていた。
 幾多の科学技術を開拓し、様々な思想、理論などを積み重ねてきた人類ではあるが、格差は広がる一方だし争いも一向に絶えることがない。先史・有史を通じて、人が人のために獲得し得た真の叡智は一体何だったのかということを、今更ながらに黙考する昨今である。
 こうした徒然の思いはやがて、わが短歌の世界にも及ぶ。短歌、詩、文学、更に芸術と視界を広げてみても、実利が機軸となっている「選択と集中」から見れば、おおよそ埒外ということになるだろう。さし迫った問題として既に、大学の文学部は厳しい状況に置かれている。「役に立つか否か」、「損得勘定」、「駆引き」、こうした風潮の源は現代の社会システムが引き起こしている。文化と呼ぶに相応しい大凡全ての営為、それらは先に述べた風潮と、価値観から見れば恐らく対立する極にある。
 何故私達が短歌に親しむのか、その原点に立ち返ったとき、今の社会を覆っている功利的風潮とは相容れないものが見えてくる。日々の細やかな心の動きを大切に扱い、実利的には何の役にもたたない作歌という慎ましやかな行為に、貴重な時間を充て、精力を注ぎ込む作歌ではある。しかしながら、そこにこそ、人が豊かな生を送ってゆくための必要欠くべからざる原理が内包されている。人の世は、温かな心を持った人たる人の存在によって意味を得ている。一人一人の生の中軸に在る心、そこに限りない価値を見出してゆくのが、例えば短歌である。
 冒頭で述べた二氏の所感も、今の世の大方の価値観の転換を促してのことだろう。短歌の世界も内情は結構複雑で、作歌の動機、作品評価、歌壇に対う姿勢も各様である。だが、少なくとも実利に係わらない作歌姿勢と、純粋な詩情を堅守する覚悟があったればこそ、新しい時代における歌界の存在を存分に主張し得るだろう。




   二〇一九(平成三十一)年「歩道」二月号    


   (とき)()()(むかふ)               佐々木比佐子



 佐太郎先生の新年詠「新しく来向ふ年はいかならん月満ちて人の健かにあれ」(『開冬』)は陸放翁の詩句「但願月満人常健」による一首であるが、ねぎごとであるこの強い詩句を、歌の下句に均衡を保ちつつ活かしているのは、上句「新しく来向ふ年はいかならん」の表現である。
 上句において注目されるのは、何と言っても「来向ふ」であろう。ただちに思いうかぶのが、万葉集巻一に収められる柿本人麻呂の安騎野冬猟の歌群のうち、短歌四首の棹尾の歌「日並(ひなみしの)皇子(みこ)(みこと)の馬()めて()(かり)立たしし時は来向ふ」である。
 斎藤茂吉の『万葉秀歌(上巻)』には、この一首について、次のように記されている。「総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。」
 安騎野冬猟の歌群には、柿本人麻呂の心血を注いだ表現の工夫が感じられる。長歌の後に反歌ではなく、「短歌」と記して、起承転結という詩の展開を意識する連作四首を作歌することは、新しい表現の形式であった。よく知られた「(ひむがし)の野に(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月(かたぶ)きぬ」の一首は、起承転結の「転」にあたる第三首目の歌であり、これに続く「結」にあたる第四首目が「日並皇子の命の馬並めて御猟立たしし時は来向ふ」という構成になっている。第三首目の歌の効果により、冬の暁の緊迫感が、第四首目の歌に生彩を加えて鮮やかである。そして、この「結」にあたる一首は、安騎野冬猟の歌群全体を総括するごとく働いている。
 歌群の中に生動する一首を眺めていると、やはり茂吉が言うところの「人麿造語」に目が行ってしまう。そしてつくづくと、「時は来向ふ」の表現を創出した人麻呂の深い思索に想いをはせてしまうのである。
 茂吉は『万葉秀歌』で、先の引用の箇所に続けて次のように述べている。「「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。」
 茂吉も八首ほど、この「来向ふ」を歌に詠んでいる。




   二〇一九(平成三十一)年「歩道」一月号    


   月 輪                 佐々木比佐子



  日常的に、宇宙に関するさまざまな話題が飛び交う。これは、わたくしたちが生きる時代ならではのことで、この時代の先頭に、NASA(アメリカ航空宇宙局)が立ち続けている。二〇一八年の今年、NASAは創立六十周年を迎えた。それを記念する天体写真の展覧会が、東京と大阪で開催されたのは、この夏の暑さ厳しいさなかのことであった。時を同じくして、写真集『138億光年宇宙の旅』(渡部潤一監修・クレヴィス・二〇一八年)が出版されている。巻頭におかれた渡部潤一氏の文章のタイトル「NASAの画像はわれわれの視点に変革を迫り続けてきた」は、人類にとってのNASAの意義を一言で捉えている。
 色彩の美しい天体写真の大きなパネルが並ぶ展覧会にて、息を呑んで佇み、しばし見入ってしまったのは、「アポロ計画」による月面写真であった。それらのパネルを前に立つと、佐太郎先生の「七月二十一日」(『形影』)の歌がおのずと浮かんでくる。歌の作品のみならず、たしか同じ題名の文章も先生は書かれていたはずで、これを機にあらためて読んでみることにした。科学の進歩によって詩歌の対象はひろくなるということを述べる中の、「ただわれわれは事実を心によって見るまでである。」の一文がつよく響く。これは『短歌を味わうこころ』に収める昭和四十四年九月の日付の文章であるが、同時期執筆の「月の歌」という文章も同書には収められており、この中の一文もまた、心に留めておきたい。「アポロ十一号の成功で、人間の足が月面を踏んだ。月がわれわれに近くなったといっても、夜空に仰ぐ月には古今はない。」
 蘇東坡は、空を仰ぎ月に向って「いつの時より有るのでしょうか」と問いかけうたい、中秋の山上に舞ったという。このあまりにも有名な(ツー)は、その中の一句「但願人長久」をタイトルにして、テレサ・テンやフェイ・ウォンら現代の歌姫によってもうたわれる作品となっている。「ただ願わくは人の長久に。千里をへだてても嬋娟を共にせんことを。」の結句は、中秋節にふさわしい。陸放翁は詩「八月十四夜三叉市對月」で、中秋節に去年看た月と今年看た月を述べて、ただ願わくは月が満ちて人が常に健やかであるようにと詠う。この結句の「但願月満人常健」を佐太郎先生は拾得され、中秋の詩句を大胆に新年詠とされた。「新しく来向ふ年はいかならん月満ちて人の健かにあれ」(『開冬』昭和四十八年「一年」)。一首のこころをあたためて、新しい時代を迎えたい。




   平成三十年「歩道」十二月号    


  皇后様の御歌(二)            樫井 礼子



 天皇家と短歌(和歌)は古く万葉集から強固な関わりをもって継続されてきた。万葉集の巻頭は雄略天皇の有名な「()もよ み籠持ち ふくしもよ」で始まる長歌で、少女への求愛と国を治める権力者としての誇示を内容とする。以下代々の天皇が四十首ほどの歌を示して万葉集全体の一%を占め、その内容は、恋、国見、自然などの要素を含む。万葉集以降は勅撰和歌集が編まれ、二十一代集を数える。勅撰和歌集が途絶えても、宮廷歌壇は存続したので和歌文学は今日まで続いてきた。その事を考えると、天皇家の存在は短歌の歴史において非常に大きいものと改めて考えられる。
 一方、皇后様は天皇家に入内される前の、国民学校の幼い時代から歌を作られていたという。魅力的な多くの歌を詠まれるのも生来のご資質と思われる。古来からの儀礼の歌として発表される作品群も、その一首一首はまさに詩情に満ちた世界を創出されているのはそのためであろう。
 前回示した『瀬音』以降に発表された作品にて印象深いものを挙げてみる。
○ 光(かへ)すもの(ことごと)くひかりつつ早春の日こそ輝
  かしけれ
○ その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝
  かに明るかりしと
○ 何処(いづこ)にか流れのあらむ(たづ)ね来し遠野静かに水
  の音する
○ 名を呼ぶはかくも優しき宇宙なるシヤトルの
  人は地の人を呼ぶ
○ 夏草の茂れる星に還り来てまづその草の香を
  云ひし人
             (宇宙飛行士帰還)
ここには常に詩人としての視点があり、古代よりの伝統を凌ぐ詩情と、如何なる矚目をも逃さない鋭い視点がある。
「はやぶさ」など時代に即した新しい題材も豊富である。宇宙進出の時代における皇后様の感慨は、古代よりの天皇家の歌題にはなかったもので、この新鮮な吐露は歴史的と言えよう。
○ バーミアンの月ほのあかく石仏は御顔(みかほ)()がれ
  て立ち給ひけり
○ われらこの秋を記憶せむ朝の日にブランデン
  ブルグ門(あか)るかりしを
これら外遊にての矚目や海外の政変、国の勃興における題材も新しい。
○ 被爆五十年広島の地に静かにも雨降り(そそ)ぐ雨
  の香のして
下句の情調が切実である。天皇陛下を支えつつ平和を祈念される皇后様の鎮魂歌は、抒情が清新で心を打たれる。
○ カルガリーの名の親しもよ氷上に晴れやかに
  君ら競ひ滑りし
 冬季五輪を歌ったもの。上句には熱く心を寄せられ応援された皇后様が彷彿とする。





   平成三十年「歩道」十一月号    


  皇后様の御歌(一)            樫井 礼子



 今年の歌会始にて皇后陛下が示された御歌「語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ」に感銘を受けた。多くを語ることなく沈着に重責を果たしてこられた陛下を、散歩途次にてしみじみご覧になった時の感慨を表現された。象徴天皇としてのあるべき姿を模索しながら歩まれた陛下への思いが、下句の「早春の日差し静かにそそぐ」に籠められている。平成十五年には「癒えましし君が片へに若菜つむ幸おほけなく春を迎ふる」と詠まれ、平安朝からの宮中行事「若菜摘み」に託されながら、今上帝のご快癒を喜ばれる心情が直に伝わってくる。尊い天皇陛下を夫としながらも、家族としての夫を思う気持ちには私たちと何ら変わりがないと親しく感じられる。
 皇后様の和歌の初期のご指導に当たったのが五島美代子氏だが、その後は佐藤佐太郎先生が昭和五十三年から九年ほどご指導を継続され、その後は志満先生が皇后様の御歌を拝見した。それぞれの歌の師の逝去後は美しくも切実な挽歌を詠まれていることは周知のことで、「もの視つつもの写せよと宜りまししかの日のみ目を偲びてやまず」「静けくも大きくましし君にして「見ず」とはいはず亡きを嘆かむ」等の昭和六十二年ご発表の「佐藤佐太郎先生をいたみて」と題された挽歌は、私たちに深い感動を与えてくださった。昭和五十五年の作品「雪明る夕ぐれの部屋ものみなの優しき影を持ちて静もる」、昭和五十六年の作品「わが君のみ車にそふ秋川の瀬音を清みともなはれゆく」、昭和五十八年の作品「おのづから丈高くしてすがすがし若竹まじるこのたかむらは」など、まさに佐太郎短歌の真髄を心得て詠まれていると実感できる。さらに、大らかな歌風は万葉調でもありその風情は魅力である。もともと皇后様は和歌の御資質に秀でていらしたものと推察できるが、よき師に学ばれて一層見事に開花されたのであろう。畏れ多いことを言わせていただければ、皇后様の御歌は、歌集『瀬音』や毎年の歌会始の御作品などを拝見する中で際だって鋭い感性を示されており、現歌壇において相当に高い価値をお持ちの歌人でいらっしゃると考える。和歌のみならず、絵本への深い悟入やインドでの英語によるご講演など、多くのジャンルでもその御実力は目の当たりにしているが、私が長く憧れてきた要因は枚挙に暇がない。
 岡井隆氏は「美智子妃の歌は、言葉に緩みがなく、思いに甘えがなく」と述べているが、皇太子妃としてのお若い頃からその傾向はあるように思う。その特質は佐太郎先生によって、益々洗練されたものになったのであろう。




   平成三十年「歩道」十月号    


  あつまりて歌をかたらふ楽しさはとほく差し
  くる光のごとし(斎藤茂吉『つきかげ』)  大塚秀行


 「歩道」七月号の群馬・田島智恵の作品に、次の一首がある。
  新しき歌友迎へし月例会続き来し七十年おろ
  そかならず
 「七十年」という歳月の重みが圧倒的であり結社「歩道」に属し作歌を続けてきたことへの強い誇りと感慨に深い感銘を覚えずにはいられない。
 さて、「結社」という存在だが、佐藤佐太郎先生は次の様に述べている。
 「結社というものがあるのがいいか、無いのがいいか、いろいろ人も議論しているが、実際としては結社雑誌によって歌人が成長している。短歌のようなものは、個性の所産であるから、一人一人の覚悟と努力によって進歩するものだが、個性を探究し、個性を成長せしめるためには、結社とか流派とかいうものが大きな役割を果たすのである」(『短歌作者への助言』)
 佐太郎先生は、このように実際問題として「結社」を肯定し、歌人の成長のための「結社」を奨めている。
 また、「結社の存在意義」と「正師につく」という点で、香川哲三が平成二十七年「角川短歌」十二月号の中で次のように記している。
「近づきやすくて、奥深さには限りがない、それが短歌の有する世界だろう。こうした詩形を心から楽しみ、また生涯の友として歩んでゆくには、正師につき、助言を受けながら、尽きない味わいの真の詩に一歩一歩近づいてゆくことがとても大切なことのように思われる。(中略)先進の優れた作品に触れながら、揺るぎのない価値観のもとに切磋琢磨できる結社の存在は、作歌意欲の源であるということも実感している」(角川短歌「結社特集」より)
 「結社」の有意義な面が明快に述べられていて、「結社」の存在が「歌力の向上」のためにいかに大切なものであるかを知らされる。
 ここで、「歌力の向上」を思うとき脳裏に浮かぶことがある。それは、自らの生活の中で自覚した詩を、自ら獲得した言葉と表現技術によって「短歌」という小詩形に表現し得たときに、かがやきとひびきに満ち溢れた作品が生まれるということである。あらためて「結社」の中で倦まず弛まず精進してゆくことを強く胸に刻みたい。
 斎藤茂吉は、昭和二十三年、佐藤佐太郎先生に、その新結社「歩道」に次の歌を贈っている。
  あつまりて歌をかたらふ楽しさはとほく差し
  くる光のごとし
 「とほく差しくる光」をかみしめつつ、作歌活動に邁進したいものである。




   平成三十年「歩道」九月号    


  「古人の求めたるところを求めよ」(芭蕉) 大塚秀行


 秋葉四郎歌集『樹氷』に、
  残れるはグランドフイナーレ世の隅に悠々大
  河目ざし生きんか
という一首がある。この「グランドフイナーレ」という語が気に掛かっていたが、秋葉が六十五歳の時の作品で、氏の歌集『鯨の海』に、
  先生のいはばグランドフイナーレか七十歳以
  後千余首の歌
が掲出されていた。「先生」とは、言うまでもなく佐藤佐太郎先生であり、秋葉が生涯の師と仰ぐ存在である。そして、「七十歳」というのは、佐太郎先生にとっては極めて意味のある重い年齢で、佐太郎先生歌集『星宿』の後記に次のように記されている。


 「先師斎藤茂吉先生には七十歳以後の作はない。私は未到の境地をのぞきみる気持で作歌しようとしたのであつた」


 佐太郎先生は先師茂吉が経験できなかった七十歳以後の世界を作歌したのだが、秋葉はこの作歌活動を「グランドフイナーレ」という輝かしい言葉で讃えたのである。
 佐太郎先生が亡くなるのは七十七歳だが、冒頭の『樹氷』の中の一首は、秋葉七十七歳の作である。佐太郎先生の先師茂吉への思いと秋葉氏の佐太郎先生への思いが見事に符合している。秋葉が今後の作歌活動を「残れるはグランドフイナーレ」として師の求めたものを追い求める姿に、弟子の強靭な覚悟を見ることができる。
 『樹氷』には、
  佐太郎の生年越えていよいよに独りとぼとぼ
  と遠き道行く
という一首もある。「独りとぼとぼと遠き道行く」が大変印象深いが、昭和五十八年の「歩道通信」の「佐藤佐太郎書画集」評として記されている。


 「柔軟なる筆致を以て描かれて真に敬服しました。また御書にひとりとぼとぼと遠き路をゆくようなところ何ともいえぬ趣があります」(松井如流氏)


 これは、佐太郎先生の書画を見て、書家の松井氏が佐太郎先生に宛てた私信の一部である。佐太郎先生がその生涯をかけて短歌を極めようと精進する姿が、「ひとりとぼとぼと遠き路ゆく」という語句に象徴的に述べられていると思うが、この強靭なる詩精神が見事に投影されて、秋葉の『樹氷』の歌に繋がったと思われる。
 ここで思い出されるのが、松尾芭蕉が弟子許六に送った次の文言である。


 「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ」


 秋葉が、その先師佐藤佐太郎先生を追い、ひたすら精進する見事なまでの潔さに強い感銘を覚えるのである。




   平成三十年「歩道」八月号    


  「美を求める心」を読む(続)       中村 達


  先月号では、短歌に関わる小林秀雄の美についての考えを書いた。ここでは芸術一般の美についての考え方を見てゆきたい。絵画・音楽についての、小林の考え方は徹底している。「何も考へずに、沢山見たり聴いたりする事だと、何時も答へてゐます」と。例えば、ピカソの絵が分からないとの声に、見慣れていないからだと言う。見ることに慣れる事、頭より眼を働かせることだと言う。「見るとか聴くとかいふ事を、簡単に考へてはいけない」とも言う。短歌にも関わることであるが、芸術一般に共通する真実である。
 日々の生活の中で、目を凝らして見ること聞くことが、どれだけあるだろうか。生きることに汲々として、見るために見、聞くために聞くことがあっただろうか。芸術家は微妙な色、細かな音を聞き分けると断定する。
 「見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです」何と含蓄の有る言葉だろう。眼が見ることの邪魔になると言うのは、見ることへの集中が徹底していないか、見ることに慣れていないかである。見ることに集中すれば、黙して敬虔になるだろう。
 ひとつの例として、董の花をあげている。董の花を見て、それが董と解ると、もう董の言葉が心の中に入ってしまい、見ることを止めてしまう。心の中でお喋りをしてしまうと言う。結論として「言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けてゐれば花は、諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでせう」とある。「美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です」
 短歌に関われば、誰しもこの状況が理解出来るであろう。対象の前に立ちつくし、黙していたことがあるだろう。この時は、頭を働かすのではなく、ただ見ることに集中する。純粋直感と言うべきものである。この、人に沈黙をさせる根本に美があるとするなら、心静かに美の状態が見えてくるまで凝視しなければならない。
 「言ふに言はれぬものを、どうしたら言葉によつて現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言ふのです」とある。まず詩人は、先入観なく見ること、凝視して美の本質を捉えること、その後に言葉が生まれて来る。どれだけ工夫する努力が出来るか(技術)が問題になる。
 小林秀雄の言葉に「美しい花はある。花の美しさと言う様なものはない」
 この言葉をどう理解すべきであろうか。




   平成三十年「歩道」七月号    


  「美を求める心」を読む          中村 達


 「美を求める心」は小林秀雄が書いた芸術についてのエッセイである。芸術に対するものの見方、感じ方を独特な言い回しで書いている。この文章の中で、短歌に触れている部分がある。紹介しつつ、作歌における態度について考えてみたい。
  田兒の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高
  嶺に雪はふりける        山部赤人
 「歌人は、言ひ現し難い感動を(略)言葉を使つて現さうと工夫するのです。」と書いている。対象を見たとき、心に動くものがある。感動であろうが、まだ美を捉えているとは言えない。美として捉えるには、普遍的なものが捉えられていなければならない。秀歌はその要素を持っている。捉えた普遍的な美をどの様な言葉で現わすかである。
 小林は、赤人の歌について「日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかつた力を得て来るのです。」と説いている。このことに注目する。日常の言葉を使用し、それ以上の働きをさせるのが詩である。この点で赤人の歌を評価しているのである。
 「歌は意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形といふものもある、と言ふことをよく心に留めて下さい」と赤人の歌を秀歌として認めている。
 この文章を読むと、短歌の本質を衝いている様に思う。短歌は内容だけでなく、どんな言葉を使うかが大切であると説明している。私はここに言葉の語感、響きが一首に如何に大切であるか、意味以上に重要なのであると思う。小林は短歌の専門家ではなかったが、短歌の要諦だけは捉えていた。
 「悲しみの歌は、詩人が心の眼で見た悲しみの姿なのです。」とも言っている。つまり、短歌は言葉の姿、形を大切にしなければならないと考えていた。短歌の言葉、姿は説明が出来ないものだろう。説明できるとしたら、それは秀歌ではないのかも知れない。「美しいと思うことは、物の美しい姿を感じることです。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。」「一輪の花の美しさをよくよく感ずるといふ事は難しいことだ。」とも書いている。ただ漠然と見ることを戒めてもいる。写生と言うと、目に見えるものを丁寧に写そうとするが、それでは物の本質は掴めないだろう。では如何するか。小林は「今日の様に、知識や学問が普及し尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。」 漠然と見るのではなく、感ずることの大切さを、改めて説いている。




   平成三十年「歩道」六月号    


  遠き真菰(心が見る)           比嘉 清


 全国に百四十近くある斎藤茂吉の歌碑の一つが私の住む街にもある。
  春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰に
  雁しづまりぬ
 昭和八年三月、斎藤茂吉は門人の佐藤佐太郎と山口茂吉を伴い、我孫子の柴崎沼に来てこの歌を詠んだ。その頃は、多い時には三千羽近くの雁が柴崎沼や近くの手賀沼に飛来していたと言う。佐藤佐太郎は、著書『茂吉秀歌』の中で、この歌の真菰の存在について興味ある記事を残している。
 「三月十九日、山口茂吉氏と私が同行したから知っているが「真菰」は実際には一面の枯葦の原であった。
 しかしそこにあるべき真菰も否定しがたいし、またおしはかって真菰といってもよいので、これも現実を見る働きの一つである。」
 それから三十八年たった昭和四十六年、佐太郎は宮城県の伊豆沼に行った時に雁を観察し、雁が真菰の原に親しみを持っていることを知った。この時のことが著書『短歌を味わうこころ』に書かれている。


 「斎藤茂吉の昭和八年の作に「残雁行」という一連がある。利根川の河畔で見た歌だが、そのときは私も一緒だった。応援にいとまがないというように、雁の群れがつぎつぎに低く飛んで来ては葦原のむこうに見えなくなって行った。先生は「春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰に雁しづまりぬ」という一首を作った。雁のしずんだのは葦のむこうだが、それを「遠き真菰」と言っている。いま思えば、雁は真菰のようなもののあるところにおりるので、葦の中にはおりないことを先生は知っていたに違いない。葦のむこうの肉眼では見えない真菰を先生は見ていたのであっただろう。歌は先生一代の傑作だが、私はあらためて尊敬しないではいられない思いがした。」


 沼の辺は見る限り枯葦であったが、雁の動きから遠くの真菰の存在を見抜いた茂吉の心眼を讃えている。直観による透徹した対象把握を具現する佐太郎短歌は、このような茂吉の実作を通して、培われたものと想像する。
 歌会や短歌誌などでスケッチさながらの直叙が少なくない。佐太郎は「ものを見るということは心が見るのである」(茂吉秀歌)と言い、また「事実に囚われすぎこだわりすぎると詩の表現にならない。(秋葉四郎著『短歌入門』)との指摘もある。単に物を写しとる丈では心に響いてこないことを歌碑は教えてくれる。茂吉が訪れた柴崎沼は、戦後の食糧増産のため埋め立てられたが平成六年の春、手賀沼遊歩道に茂吉歌碑が建立された。





   平成三十年「歩道」五月号    


  台湾万葉集に学ぶ             比嘉 清


 台湾万葉集が出版されたのは平成六年である。作者の多くは日本統治時代に日本語教育を受けた台湾入であった。万葉集と同じ約五千首が収められ、作者の職業は多岐にわたっている。歌は文語体、旧仮名使用が原則であり、写生主義を踏襲し生活直写的な歌が多い。発刊からまもなくして大岡信の「折々のうた」にたびたび取り上げられて話題となった。
  触れしバラ針柔らかしたまゆらを胸に萌しし
  棘を悔い居り           游細幼
  しんしんと更けゆく庭に月満ちて椰子は木の
  実の高き静まり          黄徳龍
 終戦と共に、多くの日本人が引き揚げ日本語のすたれた中で、何故台湾万葉集は生まれたのだろうか。日常生活から急速に消えていった日本語であるが、幼少の頃に日本語教育を受けた世代は、日本語が最も生活感情を表現し易かったのであろう。
 台湾万葉集出版の中心となったのは、孤蓬万里(本名呉建堂)であった。
  万葉の流れこの地に留めむと生命のかぎり短
  歌詠みゆかむ          孤蓬万里
  古きよきもの保ちつつ新しきものを求めん短
  歌の道にも
 日本留学中に万葉学者の犬飼孝に学んだ孤蓬は、終戦後の台湾に短詩型文学である短歌を広めるべく台北歌壇を創設し活躍した。こうして盛んになった台湾の歌壇の中から昭和四十年の宮中歌会始に入選作が出て歌壇活動に拍車をかけた。
  魚群追ふ鷗の群が朝なぎの海を変速しつつ飛
  び行く              呉振蘭
 歌壇を集約した形で出版された台湾万葉集について、孤蓬万里は「日本の教育を受けた一群の台湾人が、万葉調の短歌の形式をかりて、生活の息吹を吐露したもの」と述べている。当初は、日本語が思い出せず懸命に辞書を引く等大変な努力をした人もいたという。日本語を学んだ台湾の人々が、短歌によって生活のなかに自分を表現する喜びを見つけ、時にはユーモアもまじえ堂々と詠んでいる。そこには、素朴さ、ひたむきさ等が見られ、万葉集の精神が継承されているように見える。
 台湾万葉集を出版した台湾歌壇に比べて日本の歌壇はどうか。戦後次々と新しい試みがなされ、短歌の本来の形式である定型や韻律などはさておいて意味が中心となり、中身の面白さや奇抜さなどが重宝され文法の乱れや難解な歌が出現するようになった。短歌の洗練度はともかく短歌の伝統形式を重んじ、正しい日本語を使った台湾万葉集と比べる時、見失ったものはないか、原点に立ち返って日本歌壇の方向性を見つけることが重要と思う。  (参考)台湾万葉集物語(集英社)





   平成三十年「歩道」四月号    


  言葉の重さ                香川哲三


 酒井邦嘉著『言語の脳科学』に記載の「言語は心から生まれるわけだが、発せられた言葉は再び心に返って理解される。・・・言語は、知覚―記憶―意識のそれぞれとの間に双方向の情報のやりとりがある」という一節は極めて暗示的である。言葉が人の心を支えている、或いは人の心と言葉は密接不可分なものであるということを、脳科学の視点から分かり易く述べれば、こういうことになるのであろう。一方、先日のテレビ番組で、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人についての興味深い話がなされていた。その中で特に私が注目したのは、言語能力の差が両者の繁栄と絶滅の分かれ目を決定付けたという件であった。このような話を持ち出すのにはそれなりの理由がある。情報伝達技術の急速な発達によってもたらされた「負の側面」が顕在化しつつある現在、私達は、それをどう克服してゆけばいいのか、今こそ真剣に考えなければならないと思うからである。「負の側面」とは何か。一言でいえばそれは「言葉の重さの喪失」である。情報化社会に生きる私達は、自分の考えや感情などを、言葉を通して、いつでもどこでも容易に発信し、世界中に拡散させることの出来る簡便な方法を手にしてしまった。ツイートもその一例である。「負の側面」を増大させているのは、情報発信の手軽さであり、これを一層助長しているのが匿名性なのだろう。一時的な感情も、ひとりよがりの考えも、言葉に乗って世界中に拡散してしまう危険性を、今の情報ネットワークは常に内在している。発っせられた言葉は他者の心に入ってゆくばかりでは無い。それらは自らの心に再帰して自身の考えや感情にも深く作用するのである。よく考えてものを言う、ものを言う時にはよく考える、こうした平凡な生活態度を私達は教えられて来た筈である。そこには、先人が経験を通して得た叡智があった。昨今とみに顕著な、言葉の重さの喪失は、やがて、社会生活や国家間の問題にも深刻な影響を及ぼすのではないかと危惧される。翻って私は、短歌の世界について改めて考えるのである。作歌は、自身の心と向き合い、一つの言葉、助詞・助動詞一字だって決して疎かにすることなくクオリアを紡いでゆく営為である。また、雑誌や歌会などを含め、凡そ全ての場面において、「これは、私の作った作品だ」と氏名を堂々と開示し、読み手も作者が誰であるかを承知して作品と向き合うのである。官民を問わず言葉の重さが喪失しつつある現状を鑑みると、私は短歌や俳句というこの国の真摯な伝統詩型が、一層掛替えの無いものに思われてくる。少なくとも、他者、取分け社会に向けて発する言葉は、意味と内容に責任を持って貰いたい。「言葉の重さ」、「人の心」を支えるものとして、詩は、情報化の波に揉まれながらも、愈々重要性を増してくるに違いない。




   平成三十年「歩道」三月号    


  気骨また矜持               香川哲三


 高度情報化社会が到来して既に久しい。この間、私達は情報のもたらす恩恵を様々な分野でこうむってきた。情報伝達技術の進歩は近年とみに加速度を増し、今や携帯端末を通して常時多彩な情報を得ることが出来るようになった。しかしながらこうした状況は、負の側面も同時に引き寄せている。そうした中、短歌に関係することで気に掛かることがあるので一言する。それは色々な分野で頻りに目にするようになった「ランキング」に連なる動きである。膨大な量のデーターが一瞬にして世界を飛び交う今の世の中、例えばアクセス数など情報ネットワーク上の解析結果が、生産・流通・販売戦略など産業分野で盛んに活用されている。こうした取組は評価されるべきことなのだが、問題は、その延長線上に数値至上主義的なランキングが蔓延り始めていることである。従来のマスメディアに加えwebサイトやSNSなど多彩な情報網が敷かれている現在、何が社会一般の耳目を集めているかということは、相当の精度をもって迅速に把握出来るし、しばしば公表されてもいる。ニュースの類もランキングが盛んである。確かにランキングは分かりやすくもあり、一見公平そうに見える。しかしながら、「質」が重視されるべき分野では、「数」が主役のランキングは容易に誤ったメッセージを発することになる。ランキングされたニュースの類に私は違和感を覚えるが、それは「質」の評価の反映が無いがためである。
 では、短歌の世界の現状はどうか。歌集・歌書の売り上げランキングなどは、他の書籍と同様にweb上で成されているし、短歌総合誌でもアンケート方式の歌集評価などが行われている。歌集・歌書に限らず、図書全般に言えることだが、売上げ冊数や投票数により図書をランキングすること自体に私は、現代社会特有の精神的貧困を感じている。近年劣化の激しい「言葉の重さ」については別途記したいが、数的な評価が質的な評価を駆逐するような最近の動向は、こと芸術分野、取分け短歌のように終始「質」を重んじるべき世界では、厳しく批判されなければなるまい。時代の推移とともに短歌も、表記・伝達手法・内容などこれからも変化を続けるだろう。ただそこでは、短歌とは何か、何のために作歌するのかという根源的な問い掛けを潜り抜けた必然的な変化が求められている筈である。それには歌人一人一人の確固たる短歌観が必要だ。佐太郎が歌論を持てと言ったのも、そのことに通じている。ランキングを上げるための働きかけなどは空しいばかりでなく、自身のそして歌界の退廃を招くだろう。「私はこの道を進む」という姿勢が今さらながら大切に思われて来る。そうした中、菊澤研一氏の「写生を容れない現代の風潮に同調する要は微塵もない」という言葉は、歌人としての気骨と矜持を示したもので爽かな響きがあった。




   平成三十年「歩道」ニ月号    


  還暦の茂吉                佐々木比佐子


 「五紀巡游・序」には、次のようにある。「事によせていささか季春の風光をもてあそび、童馬山房先生の故事にまねんで還暦を記念するのである。」この、佐太郎先生が記す「童馬山房先生の故事」とは、何であろう。
 童馬山房先生は言わずもがな師斎藤茂吉であり、ここでは先ず『斎藤茂吉言行』を開いてみることにしよう。『斎藤茂吉言行』の記述は、昭和十七年から始まる。巻頭の日付に加えて(数え年六十一歳)と記されているように、この歳に茂吉は還暦を迎えた。「童馬山房先生の故事」とは、五月十二日の日付で次のように短く記されている。「先生は四月三十日上ノ山へ行き、還暦記念に笹谷越えをして五月八日帰京。」宮城・山形県境「笹谷越え」が「童馬山房先生の故事」なのであった。
 茂吉の第十四歌集『霜』には「笹谷越」六十首が、「上ノ山小吟」六十一首「還歴」七首と共に、詞書を添えて収められている。「笹谷越」の詞書は次のように記される。


 おのれ今年六十一歳の還暦をむかへたれば、をさなき頃父兄より屢その話聞きつる笹谷峠を越えて記念とす。五月一日朝、甥高橋重男を伴とし上ノ山を立つ


その六十首のうち二首を次に掲げてみよう。
  わが父のしばしば越えしこのたうげ六十一に
  なりてわが越ゆ
  ふた國の生きのたづきのあひかよふこの峠路
  を愛しむわれは
茂吉は、直接には「父の体験」の追体験を還暦の記念としつつ、古代から往還絶えぬ(有耶無耶関等)奥羽山脈越えを意識して、今に続く人の命の営みを愛惜しているようである。
 ところで、『斎藤茂吉言行』昭和十七年の記述に目を通していると、いたるところで茂吉六十一歳の豊饒を垣間見る思いがする。その一端をあげるとすれば、戦時中なのであるが、「アララギ」表紙画の西洋美術解説の執筆は未だ続けられていた。そしてこの年の「アララギ」に、茂吉はマサッチオをなんと三度も表紙画に取り上げている。マサッチオと言えば私も焦がれて、フィレンツェのカルミネ教会・ブランカッチ礼拝堂を訪れたことがある。茂吉は一九二三年に訪れうすぐらき光の中に壁画を見たと記しているが、私が行った一九九六年三月三十日は朝ということもあってリノベーションされた堂内は意外なまで明るく、修復を経たフレスコの色彩が鮮明であった。去り難い思いを抱いたままに礼拝堂を後にしたことを記憶している。
 年が明けて平成三十年、渋谷区立松涛美術館(東京都)に於いて「斎藤茂吉展」が、前期は二月十一日から二十五日迄、後期は三月三日から十八日迄という日程で開催される。もしかすると、茂吉の甥高橋重男撮影による還暦の茂吉の姿に出会えるかもしれない。




   平成三十年「歩道」一月号    


  共鳴する言葉               佐々木比佐子


 「五紀巡游」(『形影』短歌研究社 昭和四十五年)をあらためて読んでみた。一連の作品三十三首の前には、「かりそめに生をうけて春六十、干支一巡を紀として五紀に達し、己酉の年にたち帰つた。」に始まり、「明の高青邱は詠じて『人生百年の寿、六十未だ晩しとなさず』といった。四日の游行終れば新しい四十年の出発がある。」と結ぶ「序」が記されている。名文である。「達意の詩文」との評言には、今さらながら深く頷く。
 「五紀巡游」三十三首の歌は、和歌山の紀三井寺から始まり、奈良、滋賀、京都の諸寺を巡って、再び滋賀に到り琵琶湖東岸の長命寺そして観音正寺へと続く。その棹尾は、「やや遠き光となりて見ゆる湖六十年のこころを照らせ」の一首である。この歌の自註を「『海雲』自註」(『作歌の足跡』短歌新聞社 昭和五十五年)から掲げてみよう。


 寺庭のあるところからやや遠く琵琶湖の一部が見え、それが鏡のように光っていた。そういうところに立って、あらためて自身を省みたのであった。「六十年のこころ」は、生をうけて六十年の心境・感慨である。「心を照らせ」というような表現は中国の詩にしばしばある。こう言って、対象と作者との間に親密な交流が生れるだろうと思って私も用いたのである。この歌を彫った歌碑が山上に建つている。


先ずなんといっても、この「六十年のこころ」という詩語の力量には瞠目せざるを得ない。その上で一首全体としての悠々たる響きに胸を打たれた。観音正寺に行ってみたいと私は思った。
 あくる日、宮城県の実家に私は帰省した。この秋は母の体調も良く安らかである。そのような居間でふと手に取ったのは、「登米短歌」の一冊であった。「登米短歌」は、歩道同人の島原信義先生が発行人として刊行を続ける文芸誌で、以前は父・片山新一郎から見せてもらうこともあった。今は同じく歩道会員の妹・佐依子宛に送っていただいている。表紙をあけての一ページ目、その時わが目に飛び込んできたのは「観音正寺」のタイトルであった。
 今年の九月発行の「登米短歌 第二十四号」に、島原先生は「観音正寺」を巻頭に、巻末に「長命寺」の文章を書かれている。平成二十四年十二月五日に奥様と訪れた琵琶湖東岸の二つの寺について述べた文章は、直接端的であり、それゆえの迫真性は、私の旅ごころを更につのらせるものとなった。それにしても現在、佐太郎先生の歌碑は湖の見える所に移されているのだろうか。確かめてみたい。
 そして、この「登米短歌 第二十四号」の「編集後記」に私は注目した。


 高齢化で作歌人口の減少を心配する声もあるが、新聞歌壇や大学短歌会の盛況ぶりを見るとあまり問題ではない。
 短歌の道は奥深い。自分がどのあたりで歌を作っているか、日々反省しながら営々と作歌を続けることが大切である。


覚悟が盤石となった人の言葉なのであろう。「覚悟」は斎藤茂吉の言う「歌を作る覚悟」(「短歌道一家言」)であり、それを佐太郎先生に習うところの「覚悟」である。「短歌の道は奥深い。」の言の響は、未来に共鳴して已むことはない。