今月の特選


   二〇二二(令和四)年九月号     


   
時の響き        元田 裕代

薄雲る空を写して水たまり道のゆくてに暮れ残りをり
来春の希望者五人の履歴書を見てをり朝の事務所にひとり
孫二人わが丈すでに越して立ち休日ゆるりと会話の進む
きびしきは体の限界知る時かひとりの暮しに悔はなけれど
一組の面会のみの施設内きこゆる会話につられて笑ふ
晩秋といへど一日の荒々し風の合間に日の強くさす
雨後の秋日に照らふかやの木は樹木葬なる霊園に立つ
ゆるやかに川の流るるキヤンプ地に子の腕を持ち枯芝を踏む
満月を二日過ぎたる枕辺におぼろなる月のあかりを受くる
成るやうになると思ひてやうやくに落着くまでのわれの葛藤
霜降りし朝の冷たき庭先に下肢はからまるごとく重たし
眠らんとする二階までよどみなく脱水の音きこえくる夜



   迎へ火         横山 節子

橋渡る始発電車の音に覚め気負ひて遣りし商ひの日々
船窓の海面にあをき月影があるとしもなき波にたゆたふ
祈るほかなくて記憶を共有する震災ののち十年の今日
おびただしき汚染水のタンクの映像のあとにながるる都心の桜
菜の花の今咲く頃かさいはての開聞岳を下りたるみち
ワクチン接種やうやく終へて来し甲斐の若葉の山に春蟬をきく
暮れてなほ暑気とどこほる菩提寺の池に河骨茫茫とみゆ
あかときの夢に夫と語らひし刹那恋ほしも迎へ火を焚く
無人駅のことさら寒き線路沿ひ小さくなりておしろいの咲く
石庭の石をおほひてうごかざる紅葉の影と築地のかげと
六十年交はる友と来し京都つひなる旅かかたみに言はず
ゆく道のいづこにも咲く水仙の香りさながら寒気を救ふ


   二〇二二(令和四)年八月号     


   
香 煙         前田 弥栄子

つづまりは見舞かなはず姉の逝く八十八歳満天星朱し
朗らかなる声の顕ちくるなきがらに別れ告げたり妹われ等
穭田に露霜かぎりなく光り八十八の姉をとむらふ
千両の赤き実豊かなる庭に朝靄のたちわれに姉亡し
父に似て左ききなる姉しのび暮のゆふべに糯米をとぐ
年明けの墓に焚きたる香煙のただよひ頻りに鴉らの鳴く
隣人の摘みくれし芹かをり立ち今年も七草粥をわが炊く
冬ざれの庭に茂れる石蕗の葉ごとに朝の雪つもり来る
老いくれば詮無きことの思はれて母の生日雪降りつづく
朱の濃き皐月の花のかへり咲き何すると無きままに暮れくる
何時しかに母の享年ちかきわれ秋明菊の咲く庭に立つ
おだやかに日すがら晴るる母の忌の庭に今年も八手花咲く


    富士山         安部 洋子

吹く風に強く押されて登り来し強羅茂吉の碑の前にたつ
いづこにも河津の桜咲き満ちて車中より眺め町通りぬく
多摩川の堤の桜散りながら木の間にはや若葉勢ふ
馬酔木さく公園に憩ひ思ひをり友らと遊びし古里の山
ワクチンの接種受け来て利き腕の痛みに着衣の脱着ならず
家ごもる日の長かれば夏至の逝き七夕過ぐるも分からずにをり
趣味にての釣りにいそしむ孫よりのマグロ釣り上げし写メール届く
体重の減りたる身体に歩むとき足の力に衰へ覚ゆ
真近にて見上ぐる富士山はればれと新雪の原光り輝く
新雪の富士の姿を仰ぐとき病む身忘れて何も思はず
富士山を見上ぐる辺り紅葉に松の林は金色に照る
目に見えぬものを恐れて家寵る暮らしも二年この年も逝く


   二〇二二(令和四)年七月号     


   
風のごとくに      小堀 高秀

服薬の次第に増えて二十錠万能薬の早く出で来よ
眠りより安らひのなき癒えぬ身を何の因果と寂しむ今日も
眠られぬ夜の明け初めて寒々と落葉吹きゆく風の音する
安らかに眠れるごとき死を願ふ苦しみし入ら多く見舞ひて
検査入院の妻を送りて帰りゆく銀杏並木に木枯し寒し
受診より帰宅の遅き妻待つに窓を叩きて夜の雨降る
黄泉の国へいづれが先に旅立つと語り合へるも戯ごとならず
病む床に暁近き風を聞く子規も節も寂しみにけん
死の近き兆しならんか亡き人の夢に顕はる昨日も今日も
悔い多き過去消すごとく惜しみなく物を捨てゆく傘寿を前に
朝夕の散歩にいつも会ふ老の如何になりしや久しく見えず
五十年競ひ合ひ来し歌の友また一人逝く風のごとくに


   冬の田         村越 博茂

六反の刈田に人等水注ぎ渡りてきたる白鳥迎ふ
冬日入る丘畑ゆけば灯りたる窓より園児の声のきこゆる
広らなる沼辺の刈田に耕土機が野太き音たておほどかに鋤く
畔ぬりの終へたる冬田黒々と地表に低くゆるるものなし
廃屋の農家の庭に紅白の二本の辛夷が律儀に咲ける
池の面に跳びこむせつな翡翠にとらるる魚の春日にひかる
曇りゐる空に連なる低丘に姿見えざる杜鵑鳴く
浅谷の鋪道のかたはら露に濡れ杉菜は低く朝の日に照る
椎森の朝影及ぶ丘畑に奥の家よりラジオの聞こゆ
野分去り雲の重なる西空に四分円の虹くきやかに立つ
野分去り水嵩増せる田の川の水勢ひて小さき堰越ゆ
静もれる秋の浅谷人気なく生ふる二番穂穂先をたるる


   二〇二二(令和四)年六月号     


   
追 慕         浦 靖子

鎮魂の思ひに編みしわが歌集夫と息子の遺影にささぐ
水澄める沼の底ひに散りぼひて朱鮮やけし森の椿は
追憶は悲しみとなり甦る緩和医療の子と見し桜
栴檀の花うす紫に咲き満ちて森暮れにつつ夕明りする
絶え間なく散りくるエゴの花浴みて亡き子を偲ぶ命日近く
積乱雲いくつも湧きてさながらに樹氷のごとし梅雨明けの空
晩夏の日もるる木下を覆ひ咲く赤き水引白き水引
立冬の入り日がまともに照らしだす夫と息子の遺影に声かく
亡き夫の病床の手記冷静に再び読みつ三十年経て
庭畑にダリアとりどり培ひし亡夫顕ちつつ供花にあがなふ
確かなる亡き子の声と聞こえしが幻聴あはれしばし探しき
独り居の寂しさつのる宵空に光やさしき十六夜の月


   
多摩川残照       佐保田芳訓

高層のビル群に夏の日の照りて歩む歩道に反射熱あり
青年の骨髄移植うけしわれ命とりとめ甦りたり
会はざれば心離るといふ思ひ湧きてわが友いかに居りしか
コロナ禍に葬儀の出来ず四十年交り深き人を見送る
あり余る薬を日々に飲みをりて命つなぐといふ思ひわく
堰落ちて流れゆたけき多摩川のほとりに病ひ癒えて憩へる
多摩川の川のほとりに憩ふとき川面騒立ち吹く風の見ゆ
青天の月の光に照らされて咲ける桜の花影をゆく
多摩川に湧きたつ霧のけぶりゐて花の終りしアカシア寂し
ウイルスの感染せる世に耐へきれずわれの勤むる店舗閉鎖す
コロナ禍の羽田空港国際線台北に生れし女児を迎ふる
中天の月により添ふ星ありて共に輝き夜空うるほふ


   
二〇二二(令和四)年五月号


   戦後から        大野 悦子

父母の後ろにわれらが正座して玉音放送聞きたる八月
等分に羊羹切りゆく母囲む幼きわれらの戦後の姿
詩が良しと長崎の鐘子供らに教へし父を偲ぶ命日
新しき苗字の判を夫より貰ひ半世紀余実印となす
買ひ与へわが駅までに半分を読み切る孫を喜びし義父
銃声のとどろきしのち猟師四人山より鹿を重く運び来
わが庭の古木の柊棘消えて丸葉となりて冬日を返す
残されて広き旧家の部屋めぐりひとり小声に豆まきをする
火の始末忘れ物などわが失敗未然に防ぎて子らには言はず
前方に両毛三山の残雪が光りて芽吹きの山並みつづく
アクリル板はさみて姉と面会すあふるる話も時間に限らる
ワクチンの接種終はれば残生の夢はふたたびわが胸にわく



   ダムの村        高橋とき子

遠く来し佐藤佐太郎企画展生涯のうたこころに刻む
亡き夫かつて語りし先生の扇子のうたをしみじみと読む
闇ふかき青田に光る二つ三つ蛍と知りてをさな声あぐ
コロナ禍の休校なれど児童らの花壇にいまし盛るひまはり
寵もりゐてたまたま観たる西部劇思ほえずわが心ときめく
かすかなる風にしたがふ人参の葉を間引きつつにほひをまとふ
のらくろの原画に往時よみがへる戦時下兄の読みくれしもの
削られて米粒ほどのわが犬歯舌を当つるは慰撫にも似たり
ボレーミス一球にして負けし試合はるかなる日の記憶の宝
政争の焦点なりしダム建設三十年経て竣工ちかし
サツカー場十六個分とふこのダムの工事にかくも活気づく村
稼動する重機の音にしばしばも涼しくひびく春蟬のこゑ


   
二〇二二(令和四)年四
月号     


  
 家 居         戸田 佳子

坂道に色づく柿の実仰ぎつつ昨日の悔がよみがへりくる
コロナ禍に心張りなく部屋ごもる雨ふればその音を聞きつつ
わづらはしき北風やみて夕空に茜の雲がいくつもうかぶ
たちまちに若葉しげりて濃き影をしく花すぎし庭の辛夷は
今年はや半年すぎんおろそかに家居つづけて生日近し
たたきつける雷雨たちまちやみたればゆふべの庭にみんみん蟬なく
暑き日の暮れて十三夜の月あふぐ風なき空に光さやけし
猛暑の日つづきて庭の百日紅きのふも今日も晴ればれとさく
激しかる雷雨に朝空暗くなりわが家の前の街灯ともる
しろたへの木槿さきつぐ残暑にて今年も母の忌日近づく
父母の逝き二十年この日頃幼き日々をしきりに思ふ
八月よりあざやかにさく赤き薔薇次々開きわれは楽しむ


  
 焦 り       大友 圓吉 

足弱くなり行く不安に覚めをれば遠雷光り間を置き響む
実を付けし大葉を扱けばその匂指に残りて夕べ芳し
木蓮の枝切り終へて立ち見れば瘤立つ幹の上星光淡し
高枝を四五本切りしのみなるに四肢の痛みぬ去年には無きに
病むこともなくて朝なさな小一時間歩めることをひとり喜ぶ
鮭跳ねる姿彫りたる状差しは何時の旅のか朧となりぬ
残る時短き故の焦りかも居たたまれなくて部屋行き来する
老いてより交はり薄きわれなれば行く友もなく来る友もなし
師の色紙何処に深く仕舞ひしか折々探すも見つけ出だせず
肌寒く止むとも知らぬ雨降りて来る人もなく孟蘭盆過ぎゆく
かほどまで蟻踏み潰し極楽に行けなかろうよ蟻と言へども
ささやかに正月用意整へて妻と語らひ除夜の鐘待つ


   
二〇二二(令和四)年三月号     


   
雨 音       星野 彰

接種終へ待機のテントに黙しをり屋根打つ雨の音のひびきて
日の暮れてふたたび降りくる雨音の昼の雨よりさびしく聞こゆ
いまさらに父晩年の思ひこそ知りたしわれは父の歳過ぎ
みづからの内にをりふし兆し来る愁ひは人に言ふべくもなし
ことごとく花みな散りし川の辺の葉桜ひかるしづかなるとき
くれなづむ五月の窓に椋鳥の声が響けばにはかに暗し
春の風人なきホームに吹き過ぎて離れ行く電車の音ぞさびしき
噴水のまた吹き上るをしほどきに花なき夏の薔薇苑を出づ
十月の木漏れ日きよき園林のとほくにひびく寒蝉のこゑ
地下化され聞こゆるはずなき音を聞く半睡にして終電の音
花水木の花の終りし隣家はひと日しづけし主婦の病みゐて
古稀すぎてわれの内なるひ弱さを思ひ知りたり滅入るこの夜


  
柿若葉       戸田 民子

元日に詣づる人のまばらなる社にまつりばやしのひびく
洗足の池にし群るるゆりかもめ一羽のとべばみな後を追ふ
部屋深くさす春の日はやはらかし写経しをれば睡くなりたり
あるなしの風に若葉のゆれやまず浄真寺なる参道ゆけば
あふれ咲く庭の水仙供へたる仏間にこもるかをりゆたけし
梅雨の雨降るに勢ふ柿若葉つかれしわれの心なぐさむ
濡れ縁に庭のうれ柿描きゐし夫を偲びつつ迎へ火を焚く
あまたなる銀杏の実の色づきて朝日に映ゆる参道をゆく
幾万のすすき穂風にゆれやまず丘のなだりを娘とゆけば
すみわたる秋空高し境内に人の影なく法師蝉鳴く
防護服まとひてひすがら迅速に看護つづくる入らたふとし
ステイホーム続けど家事のはかどらず庭の雑草日々に勢ふ


 
  二〇二二(令和四)年二月号     


   
街路樹      杉本 康夫

この日頃妻の衰へまのあたり見てをりしかば言葉つつしむ
年々の申告終へて帰り来し家に一人の刻をゆかしむ
溝川に沿ひて生ひたる菜の花の黄の群落はひときはまぶし
老いたれば何かにつけて怠惰なる日々を送りし己を疎む
酒を断ちはや半年か思ほえば幾ばくかわれ軀の軽し
秋めきし日差しと思ふ街路樹の欅の影が歩道に長し
日々歩く道に欅の落葉踏むころとなりたり一年はやし
収穫を終へたる畑のさく切れば鍬の先にて小石のあたる
秋づきし光のなかに山茶花の花咲き出でて特に輝く
遠花火かすかに聞こえ曇日のけふ鮎釣りの解禁日らし
休耕の田に繁りたる雑草のなかより維の声が響けり
コロナ禍の集会なれば保つべき距離を意識し椅子並べゆく



   花 嫁      細貝 恵子

亡き母の作りくれたるわが着物はれのよき日に娘が着をり
婚約をしたる娘の細き指透きとほり光る指輪の似合ふ
潮干きしさんごの海の水底に春の日そそぎめかぶの揺るる
をりをりの波に離れて相寄れる烏賊のつがひを海にみまもる
晴れわたる岬にとほく見る森に雲を支へて雨柱たつ
純白の花嫁衣装の子の姿生れし日のたち思ひこみ上ぐ
幼きよりあまたの笑みをくれし子がほほ笑みて去る嫁ぐもとへと
続きたる猛暑の庭を打つ雷雨よろこぶごとく木草のうごく
盆すぎて御霊のかへりあふぐ空入日にかなとこ雲のかがやく
子規を偲び道後をゆけばあまた生るへちまに秋の日差こぼるる
杉山の連なる里のもみぢ日にひととき燃えてはやも日暮るる
休息に飲みたる紅茶低酸素の冷えゆく体うるほしめぐる



   玉虫色の鱗    鈴木 桂子

魚捌く甥らの靴にはりつきて玉虫色の鱗の光る
合併にて父の里の名失せしかど実り豊けき田畑変はらず
屈まりて萩の回遊行く孫らに花の散りくる光こぼれて
友の家に組まれし足場渡りゆく鳶職の影夕日に浮かぶ
杭のごと沼に佇む五位鷺のくはへし魚の一瞬光る
紅葉せる桂の落葉朝の雨にしるく香の立ち歩みの弾む
里山の林を抜け出で見る沼に鴨のひく水脈長く真白し
椋鳥の群れは風強き街を飛び橋くぐるあり橋越ゆるあり
おもむろに霧の消えゆく海渚浜菊の花の香の中歩む
防風林は視野を限りておのおのに巻きゐる蔦の紅葉冴ゆる
側溝に散り積もる落葉両の手に掬へばかすかにぬくもり伝ふ
片扉く穂芒の続くかたはらを蔵王仰ぎつつ墓参に向かふ



   奉書紙      鈴木 憲治

半年ほど乾燥させし桜材反りを直して木取りしなほす
御頭だけは木目が真つ直ぐ通るやうに位置を選びて観音木取る
雑音をさけて夜中に観音の顔を仕上ぐる障るものなく
二年越しの観音菩薩仕上がるも今しばらくは傍らに置く
仏師として仏刻みて五十年今年はじめて個展を開く
亡き夫の面影欲しと頼まれぬ守り本尊大日如来
亡き人に似せて刻むも仏にはほとけの顔のありて悩みぬ
仕上がりし大日如来像納めんと高島暦に良き日をさがす
弥陀仏の顔を鏡に映しみてかほの傾きたしかめ仕上ぐ
手暗がりにならぬやうにと座るむき僅かに変へる日射しにあはせ
日々わづか遅れる時計もわがリズム弥陀仏の顔ゆつくり刻む
大晦日は奉書紙敷ける道具箱に鏡餅かざる感謝を込めて



 
  二〇二二(令和四)年一月号     



  
学位記       坂本 信子

服薬の減りしかすかなるよろこびに通院長き夫に付添ふ
残年をわれに頼りて生くる夫企業の戦士たりし日々あり
十五年通ふ病院にかつてなき緊張ただよひ人ら声なし
コロナウイルス身近に迫り早々と投薬のみに病院を出づ
稲熟るる棚田に残る夕光のさびしさ義兄の通夜に行く道
紅葉の前のしづけさ高千穂の山々夕日に神さびて見ゆ
不自由なる身にて就職活動をする孫いまだ内定ならず
瀬に並ぶ白鷺深みに潜る鵜らひたすらにして落鮎漁る
やうやくに寒気やはらぐ街川のうへに乱れて岩燕とぶ
車椅子の膝に学位記ささへ持つ孫よ辛苦の年月耐へて
健常のクラスメートと学びたる内なる孤独を孫のいま言ふ
幼子が重き障害負ふさだめ思ひて眠れぬ日々を過ごしき


  
ひぐらし      佐々木 勉

弟を看取ると病院へけふもゆく生きて逢へるはあと幾日か
弟の逝きて初七日わがあゆむ渚草むらに浜茄子熟るる
ひぐらしの遠く聞こゆる夕暮れにひとり飯食ふ弟逝きて
こころ病む苦悩つづりし弟の遺品の日記見つつ涙す
手をやすめしばしばものを想ふなど弟の遺品の整理すすまず
初馬を西の方角に向き変へて新盆最後の夕暮れ寂か
波荒らぶ新盆明けの朝の海西方浄土へ手を合はすなり
むし暑き初秋の空にほのじろく浮かぶ孤独の昼の月あり
老い独り酒酌みをれば親しけれ畳にこほろぎ一つ鳴きそむ
悔い多き記憶のみ顕つ寂しさや七十九歳を省りみたれば
家族にておせち料理を楽しみし思ひ出はるか今独り老ゆ
歌詠めば老いの心のかく癒えて吹雪ける夜を眠らんとする


  
職退きて      田丸 英敏

朝焼けの六月の空思ひ出づ父を看取りし日のはるかにて
母親に叱られて来し少年と夏の緑地を自転車に駆く
夏ふけて足袋の小鉤をかくるとき七十五歳のおのれ励ます
手縫ひよりはじめて久し幾万の畳縫ひしか世業を退く
畳積みていかはどの距離走りしかトラツク五台乗り換へて来つ
われと共に年重ねたる製畳機修理部品の今は無しとふ
仕事との係はる人を削除していよいよ携帯鳴ることもなし
多摩川に沿ひしこの道なし畑も梨売る小屋も少なくなりぬ
祭札の中止となりしこの年も社のめぐり葛の花咲く
いくたびも魚のごとくに屋上に出でてあぎとふ籠れる日々は
みづからの影を先立て歩きしが蛇崩の道日の暮れ早し
ワクチンの副反応のなきことは喜ふべきか老いたるゆゑか


  
平 穏       村上 時子

城堀に渡り来し鴨らコロナ禍を知らず平穏に水浴びてゐる
池の辺に紅葉かがやく桜の木背もたれをしてしばらく憩ふ
一片の雲なき夜空に満月が高く孤独に輝きてをり
屠殺する牛の歩みの進まぬを憐れみをりし獣医の父は
軍用犬に召集されて明日は征く犬に焼肉食べさせし日よ
妹とわれの手を引き健やかに散歩をしたる父懐しむ
珈琲の香に包まれて出来るまで待つ間のたのし子と共に居て
志満先生のどうでもよけれといふ言葉何度もわれを慰めくるる
悲しみの和らぐならば酒のみて思ひきり心のうちを述べたし
島丘の墓参に来れば一面の蜜柑の花の香に包まるる
早春の日ざし輝くしまなみの海道ゆきて憂さを忘るる
こもり居のわれに歩道誌今日届き春日の部屋に楽しみて読む