斎藤茂吉    佐藤佐太郎    佐藤志満 

    佐藤佐太郎百首



 軽 風


生あたたかき桑の実はむと桑畑に幼き頃はよく遊びけり



 
歩 道


暮方くれがたにわが歩み来しかたはらは押し合ひざまに蓮しげりたり


舗道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸がらすどのそと


薄明はくめいのわが意識にてきこえくる青杉をく音とおもひき


をりをりの吾が幸よかなしみをともに交へて来たりけらずや



 
しろたへ


地下道を人群れてゆくおのおのはゆふべの雪にぬれし人の香


暁の降るさみだれやわが家はおもても裏も雨の音ぞする


静かなるしろき光は中空なかぞらの月より来るあふぎて立てば



 
立 房


風はかく清くも吹くかものなべて虚しき跡にわれは立てれば


 
帰 潮


苦しみて生きつつ居れば枇杷びはの花終りて冬の後半となる


冬の光移りてさすを目に見ゆる時の流といひて寂しむ


壼のなかに蝿の幼虫のうごきゐる家の貧困を人も見るべし


魚のごと冷えつつおもふ貧しきは貧しきものの連想を持つ


つちひくく咲きて明らけき菊の花音あるごとく冬の日はさす


貧しさに耐へつつ生きて或る時はこころいたいたし夜の白雲しらくも 


秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く


わが来たる浜の離宮のひろき池に帰潮きてうのうごく冬のゆふぐれ



 
地 表


秋彼岸すぎて今日ふるさむき雨直  すぐなる雨は芝生に沈む


台風のあらぶるなかに鶏の産卵の声しばらくきこゆ


北上の山塊に無数の襞見ゆる地表ひとしきり沈痛にして


能登の海ひた荒れし日は夕づきて海にかたむく赤き棚雲



 
群 丘


波さわぎいたぶる潮の流よりうつつの音は低くきこゆる


平炉へいろより鋳鍋にたぎちゐる炎火の真髄は白きかがやき


ときの移りおもむろにして長きゆゑ咲くにかあらんこの返花かへりばな


白藤しろふじの花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし


うつつなるこころのながれ惜しみつつかすかに生きてありと思はん


青々と晴れとほりたる中空なかぞらに夕かげり顕つときは寂しも


浅間より砂礫ふるときわが庭につづく田の水たちまち濁る


ひろびろと浜の常なる寂しさかわが真近くの波はとどろく


潮いぶきたつにかあらん静かなる夜半よはにて月をめぐる虹の輪



 
冬 木


凍りたる海よりも雲くらからん一望にしてただ白き海


まのあたり浄土曼荼羅に楼閣のあること寂し仏あそべど


冬の日といへど一日ひとひは長からん刈田に降りていこふ鴉ら


空わたり来る鶴のむれまのあたり声さわがしく近づきにけり



身辺のわづらはしきを思へれど妻を経て波のなごりのごとし


白鳥の群とびたちてひとしきり雪山の上ゆれつつわたる


限りなき砂のつづきに見ゆるもの雨の痕跡と風の痕跡


くれなゐの沙漠のはてと夕映の間に暮れてゆくところあり


憂なくわが日々はあれ紅梅の花すぎてよりふたたび冬木


犬などにけだものの臭ひ淡きこと互に長く親しみしかば


いちはやくわかきとき過ぎて珈琲をのみし口中の酸をわびしむ



 
形 影


あたたかき冬至の一日くるるころ浜辺にいでて入日を送る


海猫は雛はぐくみて粥のごと半消化せる魚を吐き出す


冬山の青岸渡寺せいがんとじの庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ


波さむきみぎはの砂はあなあはれ雪にほとびて踏みごたへなし


寺庭にのこる雪をぬきいでて紅梅一木ひときさく偈頌げじゆのごとくに


夕光ゆふかげのなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る


あるときは幼き者を手にいだき苗のごとしと謂ひてかなしむ


われをてず相伴ひし三十年妻のこゑ太くなりたるあはれ


やや遠き光となりて見ゆるうみ六十年のこころを照らせ


鳥雀のごとたあいなく秋の日のいまだ暮れざるに夕飯を待つ


崩壊のあとの石塊にしばし立つ虚しきものは静かさに似る



 
開 冬


冬至すぎ一日ひとひしづかにて曇よりときをり火花のごとき日がさす


六尺の牀によこたへて悔を積むための一生ひとよのごとくにおもふ


沼のべの村のしづかさ残汁ざんじふを護る蜆も風に乾けり


地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音


冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に海はかくるる


二十年魚の眼老いず雪はれし部屋にうづくまり魚の眼を削ぐ


草焼きし跡のゆゑもなき静かさやその灰黒く土かたくして


足よわくなりて歩めばゆく春の道に散りたる樟の葉は鳴る


冬ごもる蜂のごとくにある時は一塊の糖にすがらんとする


夜となりてともなふ雷の震ふとき雪つみをれば長くとどろく


暁の海におこりて海を吹く風音寂しさめつつ聞けば


青々としげりて嘉植なきところ足摺岬に海高く見ゆ


みづからの幹をめぐりて枝あそぶ柳一木はふく風のなか


いちはやく若葉となれる桜より風の日花のニ三片とぶ


北極の半天を限る氷雪は日にかがやきて白古今なし



 
天 眼


衰へしわが聞くゆゑに寂しきか葦の林にかよふ川音


みづからの顔を幻に見ることもありて臥所ふしどに眠をぞ待つ


ただ広き水見しのみに河口まで来て帰路となるわれの歩みは


灯の暗き昼のホテルに憩ひゐる一時あづけの荷物のごとく


門のうち門のそとにも辛夷ちる風痺を得たる日の記念にて


青天となりし午すぎ無花果いちじくをくひて残暑の香をなつかしむ


台風の余波ふく街のいづこにもおしろいが咲く下馬あたり


病みながら痛むところの身に無きを相対的によろこびとせん


朝寒くかたちかすけき白魚に魚の香のあることを寂しむ


道に逢ふ杖もつ人は健康者よりも運命に振幅あらん


島あれば島にむかひて寄る波の常わたなかに見ゆる寂しさ


春ちかきころ年々のあくがれかゆふべ梢に空の香のあり


旧恨も新愁もなきおいびととして冬庭にひかりを浴ぶる


いたるところ皆老ゆべしと割り切りて歩みゆく蛇崩歳晩の道



 
星 宿


来日らいじつの多からぬわが惜しむとき春無辺にて梅の花ちる


珈琲を活力としてのむときに寂しく匙の鳴る音を聞く


わがごときさへ神の意を忖度そんたく犬馬いぬうまの小さき変種を見れば


きはまれる青天はうれひよぶならん出でて歩めば冬の日寂し


ひとときに咲く白き梅玄関をいでて声なき花に驚く


おのづから星宿移りゐるごとき壮観はわがほとりにも見ゆ


やむを得ずおもむろにゆくわが歩みのみならず速かにあらぬ飲食をんじき


ひとところ蛇崩道じやくづれみちに音のなき祭礼のごと菊の花さく


落月のいまだ落ちざる空のごと静かに人をあらしめたまへ


杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと何時人は言ふ


夏あさく街路樹のさくころとなりむらさきつつじわれを富ましむ


いまわれは老齢の数のうちにありかつて語らぬ人の寂しさ


暗きよりめざめてをれば空わたる鐘のおと朝の寒気を救ふ



 
黄 月


日々あゆむ遊歩道にて川音の近く聞こゆる風の日のあり


流氷のただよふ上に辛うじて命たもちし三人帰る


葉をもるる夕日の光ちかづきて金木犀の散る花となる


むらさきの彗星光る空ありと知りて帰るもゆたかならずや


夜更けて寂しけれども時により唄ふがごとき長き風音


中空の無数の星の光にも盛衰交替のとき常にあり