斎藤茂吉    佐藤佐太郎    佐藤志満 

    斎藤茂吉百首



 赤 光


あかの腐れてゐたるところより幾程いくほどもなき歩みなりけり


しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか


死に近き母にそひのしんしんととほのかはづ天に聞ゆる


のど赤き玄鳥つばくらめふたつにゐてたらの母は死にたまふなり



 
あらたま


あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり


草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ


ゆふされば大根の葉にふ  時雨 しぐれいたく寂しく降りにけるかも



 
つゆじも


ヘンドリク・ドウフの妻は長崎のをみなにてすなはち道富丈吉生だうふぢやうきちみき


わたつみの空はとほけどかたまれる雲の中より雷鳴りきこゆ


はるばると砂に照りくる陽に焼けてニルのおほかはけふぞわたれる



 
遠 遊


緑なる平野より来てDonauドウナウに支流のあふは寂しかりけれ


秋ふかき村の小さき墓地中のくるの木より落葉しやまず



 
遍 歴


はるかなる国とおもふにはざにはだまおこしてゐる童子あり


黒林のなかに入りゆくドウナウはふかぶかとして波さへたたず


しみとほるこのしづけさに堪へがてずわがゐたるRigiリギ―の山のうへの夜



 
ともしび


かへりこし家にあかつきのちやぶ台にほのの香する沢庵を食む


家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり


うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり


ぬばたまの夜にならむとするときに向ひの丘に雷ちかづきぬ


南風吹き居るときに青々と灰のなかより韮萌にら えにけり


くらがりをいでたる谷の細川はひなのところを流れ居りにき


 
たかはら


八階に居りてきけども目下の街におもぐるしき音ぞきこゆる


直ぐ目のしたの山嶽よりせまりくるChaosカ オ スきびしきさびしさ


荒谿あらだにの上空を過ぎて心中にうかぶ"Des Chaos Tochter sind  wir unbestritten"


松かぜのおと聞くときはいにしへのひじりのごとくわれは寂しむ


石亀の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け


寺なかにあかくともりし蝋の火の蝋つきてゆくごとくしづけし
   (「蝋」は原作では旧字体)



 
連 山


松花江スンガリイの空にひびかふ音を聞く氷らむとして流るる音を


白松はくしやうのそそるおほを吹きゆきてこの閣のまへにしばし風止む



 
石 泉


時のまのありのままなる楽しみか畳のうへにわれは背のびす


眉しろき老人をりて歩きけりひとよのことを終るがごとく


裏戸いでてわれ畑中になげくなり人のいのちはかいのうへのつゆ


ひぐらしの鳴くころほひとなりにけり蜩を聞けば寂しきろかも


つかれつつ汽車の長旅することもわれの一生のこころとぞおもふ



 
白 桃


こがらしも今は絶えたる寒空さむぞらよりきのふも今日も月の照りくる


春の雲かたよりゆきし昼つかたとほきこもに雁しづまりぬ


五郎劇にいでくるほどのモラ―ルも日の要約のひとつならむか


このゆふべ支那料理苑の木立にて蜩がひとつ鳴きそむるなり


ただひとつ惜しみて置きし白桃しろもものゆたけきを吾は食ひをはりけり


人いとふ心となりて雪の峡流れて出づる水をむすびつ


上ノ山の町朝くれば銃に打たれし白き兎はつるされてあり


あやしみて人はおもふな年老いしシヨオペンハウエル笛吹きしかど


横ぐもをすでにとほりてゆらゆらに平たくなりぬ海の入日は


街上にかれし猫はぼろ切れか何かのごとく平たくなりぬ


冬雲のなかより白く差しながらすぐなるひかりところをかへぬ


街にいでて何をし食はば平けき心はわれにかへり来むかも



 
暁 紅


冬の日のひくくなりたる光沁む砂丘に幾つか小さき谿あり


ガレ―ジへトラツクひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり


陣歿ぢんぼつしたる大学生等の書簡」が落命の順に配列せられけり


わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り


雲のうへより光が差せばあはれあはれ彼岸すぎてより鳴く蝉のこゑ


青葉くらきその下かげのあはれさは「ぢよしうけいたいにうじのはか


冬の光さしそふ野べのまんじゆしや華青げ  々としたる一むらの草



 
寒 雲


北とほくすみがありて冬のくもりあまねからざる午後になりたり


さだかならぬのぞに似たるおもひにて音の聞こゆるあけがたの雨


一冬は今ぞ過ぎなむわが側のたうの火鉢に灰たまりたる


うすぐらき小路をゆきて人の香をおぼゆるまでに梅雨ふけわたる


おびただしき軍馬上陸のさまを見て私の熱き涙せきあへず


みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしましあぎとふ
   (「あぎとふ」は原作では漢字表記)


洋傘かうもりを持てるドン・キホ―テは浅草の江戸館に来て涙をおとす


寒の夜はいまだあさきに洟はWinckelmannウ イ ン ケ ル マ ンのうへにおちたり



 
のぼり路


高千穂の山のいただきに息づくや大きかも寒きかも天の高山たかやま  


落葉にも光てりかへす水のべにゐつるがら配偶つれあひありや



 



とどろきはわたの中なるなみにしてゆふぐれむとするすなに降るあめ


かぎりなき稲は稔りていつしかも天のうるほふ頃としなりぬ



 
小 園


隣り間にしやくりして居るをとめごよ汝が父親はそれを聞き居る
   (「しやくり」は原作では漢字表記)


人知れず老いたるかなや夜をこめてわがゐさらひも冷ゆるこのごろ


くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ


沈黙のわれに見よとぞ百房ひやくふさの黒き葡萄に雨ふりそそぐ


松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき


あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり


たたかひの終末ちかくこの村に鳴りひびきたる鐘をわすれず


貧しきが幾軒か富みて戦をとほりこしたるこの村の雪



 
白き山


しづけさは斯くのごときか冬の夜のわれをめぐれる空気の音す


幻のごとくに病みてありふればここの夜空をかりがかへりゆく


近よりてわれは目守らむ白玉の牡丹の花のそのざいしん


戒律を守りし尼の命終みやうじゆうにあらはれたりしまぼろしあはれ


ひがしよりながれて大き最上川見おろしをれば時は逝くはや


最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片


あたらしきときに老いて生きむとす山に落ちたる栗の如くに


かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる


最上川   逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも


道のべに蓖麻ひまの花咲きたりしこと何か罪ふかき感じのごとく


やまひより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川


うつせみの吾が居たりけり雪つもるあがたのまほら冬のはての日


オリ―ブのあぶらの如き悲しみを彼の使徒も常に持ちてゐたりや


けふ一日ひとひ雪のはれたるしづかさに小さくなりて日が山に入る



 
つきかげ


この体古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを


かいわいにをん鳥をればあかつきの声あげむとしてその身羽ばたく


ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香


わが気息いぶきかすかなれどもあかつきに向ふ薄明はくめいにひたりゐたりき


この部屋にいまだ残暑のにほひしてつづくすゐの夢見たりけり


人老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする


生活を単純化して生きむとす単純化とは即ち臥床なり


目のまへの売犬ばいけんの小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ


場末をもわれは行き行く或る処満足をしてにはとり水を飲む


暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの


老いづきてわが居る時に蝉のこゑわれの身ぬちを透りて行きぬ
   (「蝉」は原作では正字体)


茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬとほのこがらし


おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震なゐふるふころ